あの公園で、君に会えたら

夜景が広がる窓辺に、奈々は静かに立っていた。

ガラス越しの街の灯りは穏やかで、遠くて、まるで別の人生みたいだった。

明日、自分は結婚する。

何度も準備をして、何度も打ち合わせをして、そのたびに実感していたはずなのに――
今になって、胸の奥が少しだけざわつく。

嬉しい。
安心もしている。

それでも、怖さが消えたわけじゃない。

「追いかけてくんな」と言われた夜を、奈々は忘れていない。

巻き込みたくないと、突き放された夜。

優しさだと分かっていても、
あの瞬間、心が一度途切れた気がした。

もし追いかけなかったら。
もしあのとき、立ち止まっていたら。

今ここには、立っていない。

背後から足音が近づく。

「奈々」

振り向くと、諒が部屋の灯りを落としていた。
夜景の光が、彼の横顔をやわらかく縁取る。

「眠れないのか」

「うん……ちょっとだけ」

諒は奈々の隣に立つ。

窓に映る二人の姿。
肩が触れる距離。

昔から隣にいたはずなのに、
今は“選んだ場所”としての隣だった。

⸻

「後悔してるわけじゃないの」

奈々は夜景を見たまま言う。

「ただ、ここまで色んなことあったなって」

公園で笑っていた三人。
颯太の告白。
迷い続けた日々。
空港での別れ。
諒の涙。

遠回りだった。

でも、その遠回りがなければ、
今の確信はなかった。

「私、いっぱい迷ったよね」

小さく笑う。

諒は静かに言う。

「迷ったから、今がある」

奈々は諒を見上げる。

「諒も、怖かった?」

選ばれない可能性。

諒はわずかに息を吐く。

「怖かった」

短く、はっきりと。

「お前が別の未来を選ぶかもしれないって、何度も考えた」

目を逸らさない。

「あいつに持っていかれる覚悟も、した」

颯太のことだ。

奈々の胸が締めつけられる。

「でも最後に決めたのは、お前だ」

低く、揺るがない声。

「選んでくれて、ありがとう」

奈々の呼吸が止まる。

守る、とか。
覚悟、とか。

それより深い。

“選ばれた男”の声だった。

奈々は諒の胸に額を預ける。

「私も、選ばれて嬉しい」

それは迷いのない言葉だった。

⸻

少しの沈黙。

「ねえ諒」

「ん?」

「この世界に入るの、怖くなる時がある」

極道の世界。
血も、裏も、簡単じゃない決断もある。

全部を理解したとは言えない。

それでも。

「それでも隣にいたい」

諒の腕が、ゆっくり奈々を抱き寄せる。

強くもなく、弱くもない。

「無理はするな」

「してない」

「ならいい」

短いやり取り。

けれどそこには対等な覚悟があった。

諒が奈々の顎に触れ、視線を合わせる。

「あの夜のこと、後悔してる」

奈々の瞳が揺れる。

「突き放したのは、間違いだった」

静かな告白。

「もう逃げない」

それは約束だった。

「絶対、離さない」

断定。

迷いのない言葉。

奈々の目から、涙がこぼれる。

怖いからじゃない。

失いかけた未来を、今は確かに掴んでいるから。

「明日、私きっと泣く」

「もう泣いてる」

「これは違うの」

「どう違う」

「ちゃんと辿り着けた涙」

諒がほんの少しだけ笑う。

「俺も泣くかもしれない」

「想像つかない」

「お前の前では、つく必要ない」

奈々が笑う。

その笑顔を、諒は静かに見つめる。

⸻

窓の外の灯りは変わらない。

でも奈々の中では、何かが確かに完成していた。

明日は特別な日。

終わりじゃない。

始まり。

ぶつかる日も、悩む日も、きっとある。

それでも。

この人となら。

奈々は諒の手を握る。

「明日、よろしくね」

諒は指を絡める。

「一生だ」

その言葉は、誓いよりも重かった。

式の前の夜は、
失いかけた心を越えて、
ようやく辿り着いた静けさだった。