あの公園で、君に会えたら

マンションのドアが閉まった瞬間、奈々は小さく息を吐いた。

緊張していないつもりでも、外ではどこか気を張っていたらしい。背中に残っていた硬さが、ようやくほどける。

諒はそれを見逃さなかった。
何も言わず、奈々の肩にそっと手を置く。

「無理してないか」

低くて柔らかい声。

「してないよ。ただ……ちょっとだけ安心した」

奈々の言葉に、諒は何も返さない。ただ髪をゆっくり撫でる。その手つきが優しくて、奈々は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

ここは、守られている場所じゃない。

帰ってきた場所だ。



キッチンに立ち、奈々は簡単な料理を作った。
冷蔵庫にあるものでさっと作れるもの。それでも、誰かのために作る食事は少しだけ特別だ。

諒はダイニングの椅子に腰かけたまま、その背中を静かに見ている。

包丁の音。
湯気。
照明に照らされた奈々の横顔。

どこにでもある日常の光景のはずなのに、諒にとってはどこか現実味がなかった。

血も、駆け引きも、冷たい判断もある世界とはあまりに遠い。

「はい、できた」

差し出された皿を一口食べ、諒は小さく息を吐く。

「……うまい」

それだけ。

でも奈々は嬉しそうに笑った。

その笑顔を見ていると、守りたいと思う理由が理屈じゃなく分かる。



食事のあと、ソファで隣に座った奈々を諒が引き寄せた。

自然な動作だった。

「なあ奈々」

「ん?」

「このまま結婚するか」

あまりにもさらっとした言い方で、奈々は一瞬言葉を失う。

「軽いなぁ、プロポーズ」

「重いのは似合わねぇだろ、俺」

奈々はくすっと笑ったあと、静かに頷いた。

「……うん。する」

迷いはなかった。

諒の腕の中が、もう自分の居場所だと分かっていたから。

指輪も、式も、形はあとでいい。
いまはこの人の隣にいることが、何よりの約束だった。



ベッドに入ると、部屋の空気が少しだけ変わる。

諒の腕に引き寄せられ、奈々は自然に身を預けた。

キスはゆっくりだった。
急がない。確かめるみたいに触れてくる。

怖さはない。ただ温かい。

奈々はそっと諒の背中に手を伸ばす。

指先が触れた瞬間、わずかな違和感に気づいた。

硬くなった皮膚。

肩や背中に、いくつも残る傷跡。
古いもの、新しいもの。言葉にされなかった時間が、そこに刻まれている。

奈々の胸がきゅっと痛む。

「……私、知らなかった」

諒は少しだけ困った顔をした。

「見せるもんでもねぇしな」

奈々は傷のそばにそっと指を置く。治せない。けれど触れることくらいはできる。

「ねえ諒」

「ん?」

「絶対、無事に帰ってきて」

声が震えていた。

「私のところに」

諒は何も言わず、奈々を強く抱き寄せた。さっきより深く、逃げ場がないくらいに。

そして額にキスを落とす。

「帰る場所があるんだからな」

低く、確かな声。

奈々はその胸に顔を埋める。

怖さは消えない。
けれど、それ以上にこの人と生きたいという気持ちが強かった。

二人はそのまま、静かな夜に溶けていった。



カーテンの隙間から差し込む朝の光が、部屋の輪郭をゆっくり浮かび上がらせる。

腕の中に、奈々の体温。

目を覚ました瞬間、まずそれを確かめる。

まだいる。

現実だ。

奈々はまだ眠っている。
柔らかな寝息と、シーツに落ちる長い髪。

無防備な姿を見ていると、胸の奥が静かに締まる。

ベッドを抜け出そうとしたとき、奈々の指がそっと袖を掴んだ。

「……もう朝?」

眠気の残る声。

「うん。でも、もう少し寝ててもいい」

奈々は安心したように笑う。

その笑顔を見ながら、諒は静かに思う。

奈々は、自分の世界の外にいる人間だったはずだ。
巻き込まないほうがいいと、何度も考えた。

それでも隣にいる。

守る覚悟はもう決めている。

だが今は、それだけじゃ足りない。

帰ってくる理由になった。

どんな夜でも、どんな決断をしても、
最後に戻る場所がある。

それは弱さじゃない。

生きる理由だ。

奈々のいる部屋へ戻るたび、
自分はただの若頭じゃなくなる。

それでもいいと思えた。

コーヒーでも淹れようか、と言うと奈々が「一緒に飲みたい」と答える。

ただそれだけの言葉が、やけに嬉しい。

マグカップを二つ持って戻ると、奈々は窓辺に座っていた。

朝の光を背にしている。

「ねえ」

奈々が言う。

「今日って、特別な予定ある?」

少し考えてから、諒は首を振る。

「ないな」

そして続ける。

「だから、作るか」

奈々が笑う。

その笑顔を見ながら、諒は静かに思う。

ここが帰る場所だ。

そして自分もまた――
帰る人間であり続けなければならないのだと。