あの公園で、君に会えたら

夜勤明けの空は、まだ夜の名残を抱えた淡い色をしていた。

病院の職員出口を出た奈々の視界に、黒塗りの車が静かに滑り込んでくる。見慣れた車。それでも見るたびに、胸の奥がわずかに引き締まる。

運転席からスーツ姿の男性が降りてきた。諒の組の人間だ。奈々に気づくと軽く頭を下げ、そのまま後部座席のドアへ回る。

丁寧にドアが開かれる。

「奈々さん、お疲れさまです」

落ち着いた声。そこには単なる挨拶以上の敬意があった。

その呼び方に、奈々の胸が小さく揺れる。

――もう、ただの幼馴染じゃない。

この世界では、諒の許婚として見られている。

一歩踏み出しかけた、その瞬間。

「気安く名前呼ぶんじゃねぇよ」

低い声が車内から飛んだ。

組員の肩がぴくっと震える。

「え……あ……」

一瞬の沈黙。

「じゃあ……お嬢?」

諒の視線が冷える。

「……姐さん?」

さらに空気が凍る。

数秒の静寂のあと、諒はぼそっと言った。

「……やっぱ名前でいい」

奈々は思わず吹き出した。

「くすっ……」

張り詰めていた空気がふっと緩む。

組員は心底ほっとした様子で頭を下げた。

奈々は軽く会釈する。

「はい、奈々で大丈夫です」

そう言うと、諒の視線がわずかに和らぐ。

子どもの頃から、奈々の名前は特別だった。

やっと隣にいられる立場になった今、
簡単に他人に共有したくないのだろう。

その独占欲が、少しだけ可笑しくて、少しだけ嬉しい。

奈々は小さく息を整え、車に乗り込んだ。



後部座席の奥に、諒がいた。

「お疲れ」

低く、柔らかい声。

さっきまでの威圧感とは別人みたいだ。

「……ありがとう」

諒は奈々の顔をじっと見た。
さっき一瞬ためらったことも、全部見抜いている目だった。

でも何も言わない。

ただ、そっと奈々の手を包む。

大きな手。温かい。

守る、というより――大事にしている触れ方。

車が静かに走り出す。



諒のスマートフォンが震えた。

「俺だ。……ああ」

声が一段低くなる。

「勝手に動くな。俺が判断する」

冷静で鋭い声。

奈々の知っている諒とは違う顔。
命や組の動きを背負う男の声だ。

通話を終えると、諒はすぐ奈々を見る。

「大丈夫?」

奈々は小さく首を傾げる。

「それ、私のセリフ」

諒がわずかに笑う。

「お前、ほんと顔見て全部分かるな」

「幼馴染だもん」

二人の間に、ほんの少しだけ昔の空気が戻る。

でも、もう子どもじゃない。



ふと、颯太のことが頭をよぎる。

颯太といた頃は穏やかだった。
普通の未来を、疑いもなく思い描けた。

あれも確かに幸せだった。

でも今は違う。

諒の隣には危うさがある。
責任がある。
背負うものがある。

怖くないわけじゃない。

それでも離れたいとは思わない。

むしろ、この人の隣に立ちたい。

守られるだけじゃなく、支えられる存在でいたい。

その覚悟が、奈々の中に静かに根を張っている。



マンションの前に車が停まる。

少し離れた場所に、もう一台黒い車が控えているのが見えた。

奈々が視線を向けると、諒が軽く頭を撫でる。

「警戒だ。問題ない」

絶対的な声。

奈々は頷き、そっと諒の袖を掴む。

「怖いけど……でも大丈夫。諒がいるから」

諒は一瞬だけ黙り、奈々を引き寄せる。

後部座席の静かな空間で、奈々の額にそっと口づけを落とす。

「当たり前だろ」

低く、揺るがない声。

「お前は俺が守る」

奈々はその胸に寄り添いながら思う。

守られるだけの隣じゃない。

この人の世界の重さも知った上で、
それでも立つ。

それが――奈々の選んだ未来だった。



諒は奈々の髪に触れたまま、静かに息を吐いた。

本当は、何度も考えた。

自分の世界に近づけない方がいいと。

血も、裏も、綺麗じゃない決断もある。
奈々には似合わない世界だ。

それでも。

離せなかった。

子どもの頃から、ずっと守ってきた存在が、
今は自分の隣に立つと言っている。

なら――

守るだけじゃ足りない。

巻き込んだ責任も、
背負わせる覚悟も、
全部、自分が引き受ける。

この世界で泣かせるくらいなら、
自分が先に倒れる。

諒は奈々の額にもう一度、静かに口づけた。

その温もりの重さを、忘れないと決めながら。