朝の光がカーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
コテージの中はまだ静まり返っている。
森の気配だけが遠くで揺れていた。
キッチンで湯が沸く音が小さく響く。
颯太はマグカップを両手で包み、立ち上る湯気を見つめていた。
ほとんど眠れていない。
理由は分かっている。
諒が帰ってきたからだ。
五年前、突然姿を消した幼馴染。
触れないようにしてきた時間。
それが昨日、目の前に立っていた。
嬉しくないわけじゃない。
むしろ、生きていてよかったと思っている。
けれど。
奈々のあの顔が、胸の奥に残っている。
怒りと涙が混ざった目。
諒の名前を呼んだ声。
颯太はゆっくり息を吐く。
七年。
高校二年の春から、ずっと隣にいた。
笑った日も、
ぶつかった日も、
未来の話をした夜も。
奈々は自分を選び続けてきた。
揺れても、戻ってくる。
そう信じている。
カップを置き、奈々の部屋の前に立つ。
コンコン。
「奈々、起きてる?」
「うん」
ドアを開ける。
奈々は椅子に掛けられた黒いコートの袖に、そっと触れていた。
諒のコート。
無意識の仕草だった。
指先が布をなぞる。
颯太の胸に、ほんの小さなざらつきが走る。
けれど何も言わない。
「……返しに行く?」
奈々は一瞬だけ視線を落とし、ゆっくり頷いた。
「うん」
それでいい。
颯太は先に外へ出る。
朝の空気はまだ少し冷たい。
白い息がゆっくり消えていく。
車にもたれ、森を見つめる。
ポケットから鍵を取り出し、指先でくるくる回す。
止めようとしても、止まらない。
奈々は揺れているのかもしれない。
それでも。
七年という時間は確かだ。
今日も隣に座るのは、自分だ。
そう思っている。
コテージの扉が開く音。
奈々が歩いてくる。
コートを腕にかけたまま。
目が合う。
颯太は助手席のドアを開ける。
奈々が乗り込む。
ドアが閉まる音が静かに響く。
エンジンがかかる。
諒の家へ向かう道が始まる。
⸻
住宅街の道を進む。
曲がる角も、信号の位置も、体が覚えている。
諒の家だ。
子供の頃、何度も遊びに行った場所。
夏休み。
宿題を持って集まって、
結局遊んで終わる。
そんな日々。
懐かしいはずなのに、今日は胸の奥が落ち着かない。
やがて、門が見えてくる。
奈々の記憶より、ずっと大きい屋敷の門。
車が止まる。
黒塗りの車が並んでいる。
一台ではない。
三台。
五台。
まだ奥にもある。
スーツ姿の男たちが整列している。
一台のドアが開く。
男たちが一斉に頭を下げる。
車から降りてきたのは、諒だった。
黒いスーツ。
背筋の伸びた姿。
奈々の知っている諒なのに、少し遠い。
奈々はそこで再認識する。
——諒は極道の世界の人間なのだと。
諒の視線が上がる。
奈々を見つける。
その瞬間だけ、目の奥が柔らぐ。
颯太はわずかに笑みを浮かべる。
「久しぶりだな」
空気が張り詰めすぎないように。
諒も口元をわずかに緩める。
「昨日会っただろ」
奈々はコートを差し出す。
「これ」
諒はすぐには受け取らない。
視線が一瞬だけ奈々の手元に落ちる。
「寒くねぇのか」
奈々の眉がわずかに寄る。
「返しに来ただけ」
沈黙。
五年という時間が、三人の間に立っている。
颯太が言う。
「……公園、行くか」
諒は奈々を見て、それから小さく頷いた。
⸻
公園はあまり変わっていなかった。
古いブランコ。
剥げたペンキの滑り台。
少し傾いたベンチ。
三人は自然と腰を下ろす。
昔と同じ並び。
でも距離は、ほんのわずかに違う。
奈々が口を開く。
「昨日の続き」
声は静かだった。
諒は前を見たまま、指をゆっくり握る。
「……家、継いだ」
低い声。
「卒業の頃な」
奈々の喉が動く。
「それで消えたの?」
諒は視線を落とす。
「巻き込みたくなかった」
間。
「俺の周り、まともじゃねぇから」
奈々の目が揺れる。
「……それだけ?」
沈黙が落ちる。
風が葉を揺らす。
諒は小さく息を吐く。
「余裕なかった」
その言葉のあと、しばらく続かない。
指先がわずかに震えている。
「家のこともあった」
そして、少し間を置いて。
「でもさ」
奈々が顔を上げる。
諒は視線を合わせない。
「お前ら、ちゃんとしてたから」
奈々の胸が締めつけられる。
「楽しそうで」
かすかに笑う。
「俺、入る場所なかった」
奈々の目から涙がこぼれる。
拭かない。
「私たち……探したんだよ」
声が震える。
「二年」
「颯太とずっと」
諒の喉が動く。
言葉が出ない。
そのとき。
颯太がゆっくり息を吸う。
「それさ」
諒を見る。
まっすぐに。
「一人で決めんなよ」
声は穏やかだが、揺れていない。
「奈々守りたいとかさ」
一瞬、奈々を見る。
「分かるけど」
間。
「それ、俺たちに決めさせろよ」
風が止まったように感じる。
三人の視線が交わる。
五年前、三人の時間はあの公園で止まった。
誰も何も言わなかったまま、
それぞれが違う方向を向いた日。
そして今。
止まったはずのその時間が、
少しずつ動き始めている。
けれど——
動き出した針が、
同じ未来を指すとは、
まだ誰も知らなかった。
コテージの中はまだ静まり返っている。
森の気配だけが遠くで揺れていた。
キッチンで湯が沸く音が小さく響く。
颯太はマグカップを両手で包み、立ち上る湯気を見つめていた。
ほとんど眠れていない。
理由は分かっている。
諒が帰ってきたからだ。
五年前、突然姿を消した幼馴染。
触れないようにしてきた時間。
それが昨日、目の前に立っていた。
嬉しくないわけじゃない。
むしろ、生きていてよかったと思っている。
けれど。
奈々のあの顔が、胸の奥に残っている。
怒りと涙が混ざった目。
諒の名前を呼んだ声。
颯太はゆっくり息を吐く。
七年。
高校二年の春から、ずっと隣にいた。
笑った日も、
ぶつかった日も、
未来の話をした夜も。
奈々は自分を選び続けてきた。
揺れても、戻ってくる。
そう信じている。
カップを置き、奈々の部屋の前に立つ。
コンコン。
「奈々、起きてる?」
「うん」
ドアを開ける。
奈々は椅子に掛けられた黒いコートの袖に、そっと触れていた。
諒のコート。
無意識の仕草だった。
指先が布をなぞる。
颯太の胸に、ほんの小さなざらつきが走る。
けれど何も言わない。
「……返しに行く?」
奈々は一瞬だけ視線を落とし、ゆっくり頷いた。
「うん」
それでいい。
颯太は先に外へ出る。
朝の空気はまだ少し冷たい。
白い息がゆっくり消えていく。
車にもたれ、森を見つめる。
ポケットから鍵を取り出し、指先でくるくる回す。
止めようとしても、止まらない。
奈々は揺れているのかもしれない。
それでも。
七年という時間は確かだ。
今日も隣に座るのは、自分だ。
そう思っている。
コテージの扉が開く音。
奈々が歩いてくる。
コートを腕にかけたまま。
目が合う。
颯太は助手席のドアを開ける。
奈々が乗り込む。
ドアが閉まる音が静かに響く。
エンジンがかかる。
諒の家へ向かう道が始まる。
⸻
住宅街の道を進む。
曲がる角も、信号の位置も、体が覚えている。
諒の家だ。
子供の頃、何度も遊びに行った場所。
夏休み。
宿題を持って集まって、
結局遊んで終わる。
そんな日々。
懐かしいはずなのに、今日は胸の奥が落ち着かない。
やがて、門が見えてくる。
奈々の記憶より、ずっと大きい屋敷の門。
車が止まる。
黒塗りの車が並んでいる。
一台ではない。
三台。
五台。
まだ奥にもある。
スーツ姿の男たちが整列している。
一台のドアが開く。
男たちが一斉に頭を下げる。
車から降りてきたのは、諒だった。
黒いスーツ。
背筋の伸びた姿。
奈々の知っている諒なのに、少し遠い。
奈々はそこで再認識する。
——諒は極道の世界の人間なのだと。
諒の視線が上がる。
奈々を見つける。
その瞬間だけ、目の奥が柔らぐ。
颯太はわずかに笑みを浮かべる。
「久しぶりだな」
空気が張り詰めすぎないように。
諒も口元をわずかに緩める。
「昨日会っただろ」
奈々はコートを差し出す。
「これ」
諒はすぐには受け取らない。
視線が一瞬だけ奈々の手元に落ちる。
「寒くねぇのか」
奈々の眉がわずかに寄る。
「返しに来ただけ」
沈黙。
五年という時間が、三人の間に立っている。
颯太が言う。
「……公園、行くか」
諒は奈々を見て、それから小さく頷いた。
⸻
公園はあまり変わっていなかった。
古いブランコ。
剥げたペンキの滑り台。
少し傾いたベンチ。
三人は自然と腰を下ろす。
昔と同じ並び。
でも距離は、ほんのわずかに違う。
奈々が口を開く。
「昨日の続き」
声は静かだった。
諒は前を見たまま、指をゆっくり握る。
「……家、継いだ」
低い声。
「卒業の頃な」
奈々の喉が動く。
「それで消えたの?」
諒は視線を落とす。
「巻き込みたくなかった」
間。
「俺の周り、まともじゃねぇから」
奈々の目が揺れる。
「……それだけ?」
沈黙が落ちる。
風が葉を揺らす。
諒は小さく息を吐く。
「余裕なかった」
その言葉のあと、しばらく続かない。
指先がわずかに震えている。
「家のこともあった」
そして、少し間を置いて。
「でもさ」
奈々が顔を上げる。
諒は視線を合わせない。
「お前ら、ちゃんとしてたから」
奈々の胸が締めつけられる。
「楽しそうで」
かすかに笑う。
「俺、入る場所なかった」
奈々の目から涙がこぼれる。
拭かない。
「私たち……探したんだよ」
声が震える。
「二年」
「颯太とずっと」
諒の喉が動く。
言葉が出ない。
そのとき。
颯太がゆっくり息を吸う。
「それさ」
諒を見る。
まっすぐに。
「一人で決めんなよ」
声は穏やかだが、揺れていない。
「奈々守りたいとかさ」
一瞬、奈々を見る。
「分かるけど」
間。
「それ、俺たちに決めさせろよ」
風が止まったように感じる。
三人の視線が交わる。
五年前、三人の時間はあの公園で止まった。
誰も何も言わなかったまま、
それぞれが違う方向を向いた日。
そして今。
止まったはずのその時間が、
少しずつ動き始めている。
けれど——
動き出した針が、
同じ未来を指すとは、
まだ誰も知らなかった。
