鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

目が覚めると、見慣れない天井が視線いっぱいに広がっていた。
微かに漂うシトラスの香りに、ここがどこなのか一瞬わからなくなる。

ダークグレーのシーツの感触が、ゆっくりと昨夜の記憶を引き戻す。

「……ぅん…………」

まだ霞がかかったぼんやりとした思考の中、ゆっくり起き上がる。
 
大きな窓のブラインドから、僅かに溢れ落ちる光。 
ふかふかの布団は、いつものものより柔らかくて、思わずもう一度潜り込みたくなる。
 
「……?!」

はっとして、慌てて周囲を見渡した。

(まって……ここ……)

慌てて昨日の出来事を思い出していると、ドアの開く音が聞こえた。

「おはよ、よう寝れた?」
 
「……ひぅっ」
 
「どしたん、変な声出して」

ベッドの縁に腰掛けたのは、きっとここの主であろう鷹宮先輩。
きっちりした人が気を抜いた、完全にオフモードの格好。
黒のロングTシャツにスウェット。
眼鏡にかかる前髪が無造作で、着崩した首元から覗く鎖骨――
それだけで、反則すぎるほど色っぽい。
     
(だめ……この人のこんな格好、心臓に悪い……)

動揺が伝わったのか、小さく笑われてしまった。
 
「とりあえず顔洗ってといで」

案内された洗面所には、必要な物が一通り揃えられていた。
歯ブラシにタオル、それにメイク落としや化粧水まで。
新品とはいえ、使うのに気が引け……あれ?

​(急に決まったことなのに、どうしてこんなに完璧に揃ってるんだろう……まさか、誰か他の女の人の……?)
 
​あたしはある可能性を浮かべてしまった。
恐る恐る、リビングにいる鷹宮先輩に声をかける。
 
​「……こんなに、用意してもらって、もし、彼女さんの物だったりしたら……」
 
​すると先輩は、コーヒーを一口飲んでから、事もなげに言った。
 
​「昨日の夜、コンシェルジュに用意させたんや。新品やから安心して使い」
 
​「コンシェルジュ……?夜中ですよ?」
 
​「それくらいさせて当たり前の管理費、払ってるからな。変な気、回さんでええから、はよおいで」
 
​(……当たり前、なの?)
  
「ついでに言うと、彼女はおらんよ。今は」

鷹宮先輩はあっさりと否定し手招きする。 
急いで洗面所から戻ると、キッチンの方から小さな音がした。
フライパンが熱せられる音と、コーヒーのいい香り。
 
「あ……」

思わず足を止める。
キッチンに立つ鷹宮先輩の背中は、昨夜よりもずっと日常の顔をしていた。

「もうすぐできるし、座っとき」
 
言われるままに、ダイニングの椅子に腰を下ろす。
テーブルの上には、マグカップが二つ。
ひとつはカフェオレ、もうひとつは――
昨日には無かったブラックのコーヒー。

(……これも用意してくれたんだ)

化粧水といい、コーヒーといい、昨日の今日で揃えられている。
その事実に、鷹宮先輩が自分の知っている世界の人じゃない気がして、胸の奥がざわついた。
 
「あの……鷹宮先輩」
 
呼びかけると、短い返事のあと、ダイニングテーブルにお皿とフォークが並ぶ。

「先に食べよ、冷めてまうし」
 
「ありがとうございます。いただきます」
 
お皿の上には、クロワッサンにベーコン。
そして――
形の崩れた目玉焼き。

(あれ?) 
 
なんでも器用に出来るイメージだったのに。
 
「……意外です」
 
想像しなかった不器用な一面に、クスッと小さな笑みが溢れてしまった。
  
「笑うな……料理は苦手やねん」

「卵の殻が入ってへんだけマシやろ」

ちょっとバツが悪そうに視線を逸らした横顔。
まるで子どもが拗ねたみたいで、ちょっと可愛い。
完璧な上司の、あまりにも人間味のある弱点を見つけた気がして、胸の奥がくすぐったくなった。
 
朝食のお礼に洗い物をしていると、鷹宮先輩がスーツに着替えてきた。
出勤する準備に、のんびり過ごしてる場合じゃないのを思い出す。
 
すると鷹宮先輩がキッチンにやって来た。
 
「今日は有給使って休んどき」
 
「大丈夫です…出勤します」
 
「あと、ホテル探すとかもナシ」
 
「え?」
 
鷹宮先輩は、腕組みしながら壁に寄りかかっている。
有無も言わさない――そして通せんぼしているみたいな雰囲気だ。
 
あたしは言葉を選びながら、続ける。
 
「でもやっぱり探しますっ、手続きもあるし……ずっとお世話になるのは……」
 
「無理やろ」
 
即答だった。
 
「罹災証明、役所、保険。平日に全部一人で回れるなんて思てる?」
 
「それに慣れへん仕事抱えて、ホテルで過ごすとかキツいで」
 
まるで、業務確認みたいな口調。 
でも、その一言一言が、確実に退路を塞いでくる。
 
「……でも」
 
反論しようと顔を上げた瞬間、低い声に遮られた。

「……葵」
 
低く、けれど逃げ場を塞ぐような響き。
名字でもない。
ちゃん付けでもない。
ただ、あたしの名前だけが、低く落ちてきた。
 
(こんな呼び方、しなかったはずなのに)
 
その響きだけで、呼吸が浅くなる。
鼓膜を揺らすその声は、甘い呪文のようにあたしの思考を停止させる。

「生活が落ち着くまでは、ここに住め……他、行くとこないやろ」
 
それは、決定事項みたいに落ちてきた。
彼の瞳の奥に宿った、仕事の時とは違う──獲物を捕らえたような、静かで熱い光。
 
「そんで今日は体を休めること」
 
そういう言い方されると、断りづらくて困る。
でも今の状況では、実家も遠方で友人にも頼りにくいから、正直有り難い。
すぐに返事をしないあたしに、止めの一撃。
   
「あと、さっきの目玉焼き笑った罰として、今日の晩飯を作ること」
 
夕食も一緒に食べるのは当たり前みたいな顔。
 
「買い出しもあるやろうし、鍵渡しとくな」
 
その一言が、やけに優しい。
 
差し出した手のひらに、

彼の指が、少しだけ触れてから

鍵が落とされた。
小さな重みと彼の体温が、じんわりと広がる。

それは、ただ泊まるための鍵じゃなくて。
ここにいていいと、居場所ごと渡された気がした。
 
湯気の向こうで、朝の光が揺れている。
この部屋で、
この人と、
朝を迎えている現実。

「……よろしく、お願いします」
 
絞り出すような声に、鷹宮先輩は満足げに目を細めるので、あたしは慌てて視線を逸らす。
 
「こちらこそ、よろしくお願いします。葵」

彼の体温が残る小さな銀色。
自由を許してくれる鍵のようで、
本当は彼という檻に閉じ込める鎖みたいだった。
 
(……逃げられない約束を、結ばされた気がする)
  
でも、不思議と怖くなかった。
 
むしろ、その鎖に縛られることに安らぎを感じている自分に、気づきたくなかった。
 
――気づいてしまったら、戻れなくなりそうで。