鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

消防車やパトカーの赤色灯が、夜の空気を不規則に切り裂いていた。
遠くでサイレンの残響が反響して、耳の奥にいつまでも残っている。
 
立ち入り禁止の黄色いテープ。
湿ったアスファルト。
鼻を刺す、焦げたような匂い。

明日着る服も、スマホの充電器すらない。
鞄の中には、お財布とポーチ、会社支給のタブレットだけ。
  
(……現実、なんだ)
 
あたしの部屋があるはずの建物は、外から見ただけでもどこか歪んで見えた。
窓の内側は暗く、生活の気配がすっかり消えている。 

先ほど消防の人から、 
あたしの部屋は燃えていないものの、煙や煤が回っていて水浸し。
立ち入りもできないから、今日は部屋には入れないと。
ただ明日以降、罹災証明書など諸々の手続きがある。
  
――帰る場所が、ない。
その事実が、じわじわと胸を締め付けた。
 
「寒ないか」
 
隣から、低い声がした。
 
「……大丈夫です」
 
そう答えたけれど、正直、寒さはよく分からなかった。
ちゃんとコートは着ているはずなのに、体の内側が冷えているのか、感覚が少し鈍い。
 
肩に、ふわりと重さが乗る。
振り向くと、鷹宮先輩が自分のコートを掛けてくれていた。
 
「……っ、すみません」
 
「ええから」
 
短く言って、消防の人と二、三言やり取りをして戻ってきた。

「移動しよ」
 
「……どこに、ですか?」
 
聞いた瞬間、情けないくらい心細い声が、吐息に混じって掠れた。
鷹宮先輩は、少しだけ考える素振りを見せてから、迷いなく言う。
 
「とりあえず、俺のとこ」
 
……え?
 
「今日は考えんでええ。荷物も、着替えも、明日以降や」
 
仕事の段取りを組むみたいな口調。
  
「今は休むのが先や」
 
選択肢なんてなかったみたいに、当たり前に言う。

「……あの……」
 
「ほら、行くで」
 
歩き出しながら、ちらりと振り返る。

「今は考えんでええ」

「……俺が、葵ちゃんの応急処置」

鷹宮先輩は前を向いたまま。
右手を強引に繋がれて、引っ張られる。
そのまま離されないまま、歩き出した。

――まるで、

逃げ場を、塞がれてるみたいに。

(……あたたかい)
 
それだけで、さっきまでの絶望が、少しだけ遠のいた。
 
(この手……)
 
(離したら、全部ひとりに戻りそうで)
 
無意識に、指先に力を込める。
すると、大きな掌が、それに応えるみたいに、さらに強く握り返してきた。
 
(……なんでこんなに、安心するの)

(……こんなの、知らない)
 
その感情の正体を考えかけて――やめた。
今は、考えたくない。
ただ、この手を離したくないと思った。
 
***
 
タクシーの窓に、夜の街灯が流れていく。
赤や白の光が、ゆっくり滲んで、また消える。
 
車の揺れも相まって、身体が少しずつ重くなるのがわかる。
眠ってしまわないように、あたしは何度も瞬きをした。
 
(だめ……起きてなきゃ)
 
前の席から聴こえるラジオ、それとエンジンの音。
それ以外は、静かだった。

隣に座る鷹宮先輩の横顔は、流れる街灯の光に照らされて、冷たいほどに整って見える。
なのに、繋がれたままの右手は驚くほど熱くて、力強い。

  
(この右手だけが……)

(今のあたしを、現実に繋ぎ止めているみたい……)
 
そっと指を絡める。

一瞬だけ、止まる。

――次の瞬間、

逃がさないみたいに、強く絡め返された。

(……この人)
 
(ほんとに、放っておかないんだ)
 
その事実が、どうしようもなく、刺さった。
気づけば、意識が少しずつ遠のいていく。
 
「……起きとけへんやろ」

優しい熱に、意識がゆるく沈んだ。
 
「着いたで」
 
ドアが開いて、11月も終わりに近づく冷たい夜の空気が流れ込んでくる。
 
ぼんやりと顔を上げると――
そこには、見慣れない景色。 
静かな住宅街に聳える、重厚なタワーマンション。
 
ホテルみたいなエントランスに、思わず足が止まる。 
 
「立ち止まってたら迷子になるで」
 
当然みたいに、また手を引かれる。
その距離の近さと有無を言わせない体温に、少しだけ息が詰まった。

(……この人、どこまで遠い人なんだろう) 

静寂に包まれた大理石のロビー。
頭上のシャンデリアから零れる光が、磨き抜かれた床に宝石を撒いたような気品ある輝きを反射させていた。

コンシェルジュが彼に向かって深々と頭を下げる。
その光景に、場違いな自分を突きつけられた気がして、思わず足がすくみそうになった。
 
あたしの知らない彼の「背景」が、夜の闇に大きく広がっているような気がして、少し怖くなる。
 
(それでも……離したくない)
  
繋がれた右手だけは、離されなかった。

***
 
「とりあえず、上がり」
 
ドアを開けると、向こうに灯りがついた。 
鷹宮先輩の背中だけを目印に、あたしは靴を脱いで後をついていく。
 
リビングに足を踏み入れた瞬間、ほっとしたみたいに空気が変わった。
生活感はあるのに、どこか整いすぎていて、鷹宮先輩らしい空間。
 
「そこ、座って」
 
指差されたソファに、言われるまま腰を下ろす。
クッションが柔らかくて、思った以上に身体が沈んだ。

「ちょっと待ってな」
 
「……あ、はい」
 
返事はしたけど、声に力が入らない。
上着を脱ぐことすら忘れて、ソファに体を預けてしまっていた。
 
キッチンから、ケトルの湯気立つ音。
カップが触れ合う小さな音も聴こえてきた。
聞き慣れた生活音なのに、胸の奥がゆっくりほどけていくのがわかった。

「熱いから、気ぃつけや」
 
差し出されたマグカップを両手で受け取る。
立ちのぼるコーヒーの香りが、じんわりと鼻をくすぐった。
 
一口、含む。
甘い。
けれど、この甘さが、今のあたしには現実より優しくてちょうど良い。
  
少しずつ緊張がほぐれていく。 

「家にある中で、一番甘ないやつ選んだんやけど……ブラック切らしててな」
 
「……カフェオレ」
 
「今日は、応急処置やから。次からは葵ちゃん用のも用意しとくな」
 
さっきと同じ言葉なのに、今度はやけに優しく聞こえた。
もう一口飲もうとして、腕が少し重いことに気づく。
瞼が、勝手に下がりそうになる。
 
(だめ……寝たら……コートも脱いで……ない)
 
そう思ったのに、意識が言うことを聞かない。
 
「無理せんでええから」
 
頭の上から、降ってくる低くて安心する声。
 
「今日は、よう頑張った」
 
耳元に落ちてきたのは、上司としての労いを超えた、甘くて切実な響き。
その一言で、あたしを支えていた最後の意地が崩れた。
 
最後に感じたのは、マグカップをそっと奪われる感触。
そして、体がふわりと浮き上がる、浮遊感。
 
(……抱えられてる……?)
 
夢か現実か分からないまま、彼の胸元から漂うあのシトラスの香りに、抗えない安心感。
 
意識が沈んでいく中で――
 
「……ほんま、放っとかれへんな」

少しの間のあと。

「――俺が、離すわけないやろ」 
 
その声だけが、やけに鮮明に残った。