鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

アラームが鳴る前に、目が覚めた。

――あんな風に泣いたのは、いつぶりだろうか。
 
ふと、コートの匂いを思い出す。  
温もりと、あの低い声。

――『かわええな』

胸の奥が、じわりと熱を持つ。
    
軽く伸びをしたあと、洗面所に向かう。

鏡に写る顔は、憑き物が落ちたみたいにスッキリしていた。
 
(そりゃ……あれだけ泣いたら)
 
昨日の記憶は、まだ鮮明で。
腕の中に閉じ込められて、何も言わずにそばにいてくれた時間。
ようやく涙が止まり、離れようとした――はずなのに。

『・・・・・・それより』
  
両頬を挟まれて、無理やり顔を上げられる。
 
『おもろい顔やん。かわええな』

――また、だ。
 
あの声と言葉が、頭の中で繰り返される。
きっと、からかってるだけ。
でも、それだけじゃない気がしてしまう。
  
胸の奥が騒がしくて落ち着かない。
 
あんな風に泣いたことも、
誰かに甘えたことも、
いつもの自分では、絶対にあり得ないのに。

(・・・・・・なんで)
  
抗えなかったのか、わからない。 
彼の瞳は、取り繕うことを許さなかった。
     
(鷹宮先輩には、ほんと助けられた……何かお礼しないと)

そう思いながら身支度を整え、家を出た。

*** 

昼休みのカフェという、逃げ場のない場所で。

「お待たせしました、キャラメルマキアートとブレンドコーヒーです」
 
店員さんが、ブレンドコーヒーを鷹宮先輩の前に置く。
あたしには、キャラメルマキアート。
 
「葵ちゃんはこっちやろ?」
 
鷹宮先輩は慣れた手付きで交換して、横にあるスティックシュガーを引き寄せる。

「え?!まだ入れるんですか?」
 
あたしの驚きを余所に、二本のスティックシュガーを躊躇なく流し込む。
キャラメルだけでもかなり甘そうなのに、加えてスティックシュガーだなんて。 
その後、一口飲んで「んー……」と満足げに目を細めた。

さっきまで会議室で冷徹なまでに数字を追っていたあの鋭い瞳が、今はとろけそうに甘い。
その無防備な表情の破壊力に、あたしは慌てて視線をブラックコーヒーに落とした。
 
(仕事の時はあんなに怖いのに……その顔は反則)
   
「そーゆー葵ちゃんは、砂糖入れへんとかないわぁ」
 
「見てるだけで甘さが伝わるから大丈夫です……」

今朝、課長に呼ばれて、鷹宮先輩のプロジェクトに雪乃先輩と補佐で入ることになった。
午前中は業務確認に追われ、気づけば昼休み。
その流れで、プロジェクトメンバーとこのカフェに来た。
——までは、よかった。
  
ランチ終わりに、鷹宮先輩に腕を引っ張られる。
 
『葵ちゃんは、俺と居残り』
 
『え?』
 
『雪乃ー、あとヨロシク~』
 
『はいはい』
 
雪乃先輩は慣れた様子で、手を振って行ってしまった。
鷹宮先輩に促されるまま、コーヒーを注文して今に至る。 

「気負い過ぎんでええで、雪乃もおるし」
 
「え?」
 
「初めてやろ?」

一瞬、言葉に詰まる。   
そう、あたしにとって、プロジェクトチームの、しかも補佐とか初めてのこと。
不安で緊張していたのを、見抜かれていた。

鷹宮先輩はコーヒーを一口飲んで、少しだけ目を細めた。

「葵ちゃんの仕事ぶりは聞いてるで、自信もってえぇよ」

キャラメルマキアートに負けないくらいの甘い笑み。
まるで前から知っていたみたいな言い方だった。 
そしてなぜか、胸がきゅっと跳ねる。
 
「あ……アリガトゴザイマス」
 
なんだか上手く顔が見れず、お礼もぎこちない。
 
「それと、心配してたんやけど大丈夫みたいやな」
 
「?」
 
「目、腫れてんのかなぁ~って」

さっきの甘さはどこへやら。
今度は何度も見てる、頬杖ついてあの意地悪な笑みの顔。   
顔が整っているだけに、イライラよりもキュンとしてしまうから始末に悪い。

「鷹宮先輩って、意外と意地悪ですよね…・・・」
 
「心外やなぁ。俺は優しさの塊で有名やで?」
 
「それ、自分では言いませんよ」
 
「手厳しいなぁー、葵ちゃんは」

軽口が、こんなに心地良いなんて思わなかった。

(……絶対この人のせいだ)
 
ブラックコーヒーなのに、なぜかほんのり甘かった。 
 
*** 

午後からの業務は、目まぐるしかった。
​プロジェクトへの参加は、あたしが入社した時から「いつかやりたい!」と目標にしていた場所。
そして同じ女性として、誰よりも鮮やかに仕事をこなす雪乃先輩の背中は、ずっとあたしの憧れだった。
 
​『初日から頑張りすぎはよくないわよ、肩の力抜いて、プロジェクトは長いんだから』
 
​そう雪乃先輩に言われたけど、初日だからこそだ。
 
「雪乃先輩の隣で恥ずかしくない仕事がしたいんです。……いつか、あたしも誰かに頼られる側になりたいんです」
 
そう言って笑うと、雪乃先輩は一瞬目を見開いてから、「……あんた、ほんとに可愛いこと言うわね」と、照れくさそうにあたしの背中を叩いてくれた。 
  
雪乃先輩にアドバイスしてもらい、なんとか終業時間ギリギリに完成させた資料。
 
鷹宮先輩にチェックを入れてもらうべく、彼のいる経営戦略企画部に足を運ぶ。
  
「どうした?」
 
「今朝頼まれた資料をお持ちしました。
まだ期限は先ですが、早めに確認していただければ、修正も回せると思って」
 
「もう出来たのか?」
 
鷹宮先輩が受け取った資料に目を通しつつ、ペンでチェックしていく。
見た目だけじゃなく、字まで端正なのか。
あたしは、走っているペンと書かれていく文字に魅入ってしまう。

「ありがとう、あとはこちらでチェックしておく。お疲れさま」
 
「あ……はい、お疲れさまです」
 
「気をつけて帰れよ」

そう言って視線を戻したのに、なぜか、その一言だけが背中に残った。
仕事中だからか関西弁じゃない。
でも少し柔らかい顔は、まるでお昼休みに見た素の鷹宮先輩みたいで。

『気ぃつけてな』

そんな風に聞こえてしまった。

デスクに戻る途中、スマホが鳴った。
着信元は、住んでいるアパートの大家さんからだ。
 
(珍しい、なんだろ?)

すぐ先に休憩室があるので、早足で向かいつつ電話に出た。
受話口の向こうで、一瞬、息を吸う音がした。

「……落ち着いて聞いてね」
 
その一言で、胸の奥が冷たい水に浸されたようにざわりとする。

「さっき、あなたの隣の部屋から火が出てね……」

足元が、ふっと揺れた気がする。
  
「葵ちゃん?」
 
​言葉の意味を理解するより先に、背後からあたたかい体温が近づいてくるのを感じた。
振り向くと、そこには少し息を切らした鷹宮先輩が立っていた。
 
彼はあたしの顔色の悪さに気づいたのか、瞬時に表情を険しくさせる。 
 
「どうした?顔真っ青だぞ」
 
その低い声が、崩れそうになったあたしの世界をギリギリのところで繋ぎ止めた。 
滑り落としそうになったスマホを、鷹宮先輩の手が支えてくれる。

(……うまく話せない……どうしよう)
 
そのまま指先が伸び、スピーカーモードを押す。
   
「火は今はもう消し止められてるけど、煙が回っててね…」
 
「……はい」
 
「スプリンクラーで水浸しで…」
 
「……はい」

遠くで、非常ベルの残響みたいな音が、まだ耳に残っていた。
返事はしたのに、声が自分のものじゃないみたいだった。
 
電話を切ったあとも、しばらくその場から動けなかった。 
いろいろ説明されたものの、上手く頭が回らない。   

彼氏を失って、今度は家まで失うの? 
一人きりの東京で、行くあてもなく、明日着る服さえない。
心配させたくないから、実家にも頼れない。 
そう気づいた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。

「葵ちゃん」

ペットボトルを片手に、少し眉を寄せてあたしを呼ぶ。

「とりあえず会社出る準備しといで」
 
「あ……えっと……」
 
言葉を探している間に、彼の視線があたしのスマホに落ちる。

「……聞くつもりなかったんやけど…火事なんやろ?」

低く、確認するような声。

「隣の部屋から、出たって……今日は帰れないらしくて……」

言いながら、急に現実味が増してきて、喉が詰まる。
困惑と不安が、まとめて押し寄せてきた。
鷹宮先輩は一瞬だけ考える素振りを見せて、すぐに言った。

「とりあえず一旦家に行こ」
 
「……え?」
 
「俺も行く、もうホテルも手配させかけたけど、現場見んことには落ち着かんやろ?」

即答だった。
それは、拒む余地のない優しさだった。
さらりと「手配させかけた」と口にする鷹宮先輩。

(……手配させるってどういうこと?……誰かに?)

この人が、ただの上司じゃないことだけは分かった。
でも今は、それを聞き返す余裕なんかない。

「……放っとかれへんやろ」

一歩、距離を詰める。

「その顔で一人にするとか、無理やわ」

そう言って、
もう歩き出していた。
あたしが追いかけるのを、前提みたいに。
慌てて後ろをついていくと、少しだけ歩調を緩めてくれた。

「……大丈夫。俺おるし」
 
その一言に、胸の奥がぎゅっと掴まれる。
横に並んだ距離が、いつもより近い。
それだけで、さっきまでの不安が、少しだけ遠のいた気がした。
 
「……泣きそうな顔、すんな」
 
困ったような、でも真剣な声。
あたしが一番弱い顔をしている時に、現れる人。

(この人……)
 
放っておいてくれない。
それが、こんなにも心強いなんて思わなかった。

――だめなのに。

そう思うのに。

この人に、甘えてしまいたいと思った。