――堀川 葵(ほりかわ あおい)。
最初は、どうでもええ名前やった。
雪乃と和巳が、やたら可愛がってる新人。
そんな程度の認識やった。
『堀川や松原はガッツあるわよね〜』
仕事終わりの居酒屋で、いつもの同期飲み会。
雪乃の熱弁に、和巳がビール片手に頷く。
『雪乃が褒めるん珍しいなぁ、明日雪降るんちゃう?やめてや〜』
反論する雪乃を尻目に、枝豆のさやを剥いたら、コロンと豆が転がった。
それが、小柄な体で資料を抱え、一生懸命走り回っている彼女の姿に被る。
『ふっ………なんや今の』
怪訝な顔する二人。
『璋、その顔キモい』
『えー酷ないー?一応イケメンなんやけどー』
『ウザい』
気心知れた仲間との楽しい時間……のはずやのに。
スマホが震えたので見ると、母からの着信。
見合いの話やろ、どうせ。
辟易するわ、ほんま。
冷めた目で、画面を伏せる。
こういうときの酒は、味なんかせえへん。
――やのに。
さっきの「堀川」って名前だけが、妙に耳に残った。
それからというもの。
気づけば、視線が、あいつを追ってた。
俺のことは、単なる先輩。
いや、会社の人としか見てへんねんやろうな。
やのに、雪乃や他の奴らが声をかけたら、あんなに柔らかく笑う。
(……なんでや)
ただの先輩と後輩。
(……わかってる)
――それでも。
(なんであの顔、俺には見せへんねん)
その壁をぶち壊して、俺だけにしか見せない顔を引き出したい。
そんな、質の悪い欲が、腹の底でじわじわと熱を持っていた。
***
研修を終えた新人たちの壮行会は、いつもの居酒屋で開かれた。
『寂しくなるなぁ〜。可愛がってただけに』
珍しく感傷的な雪乃の声に、場が和む。
『わかるで、それ。俺も寂しーわぁー』
グラスを掲げると、新人たちが照れたように笑った。
その中に、彼女もいる。
前より少し、表情が柔らかくなっていた。
(……ちゃんとやり切った顔やな)
少し離れた席から、彼女の、あの鈴を転がすような声が聞こえてきた。
『遠距離なんですけど……今日、こっちに来てて』
別の部署の女性社員との、他愛もない会話。
『へぇ、堀川さん彼氏おるんやね』
『はい。なかなか会えないから、今日だけは』
(……あんな顔、他の男に見せんなや)
喉を鳴らして流し込んだビールは、さっきまでよりずっと苦くて、重い。
胸の奥が、わずかに沈んでいく。
あほか。
後輩気にかけるなんて、珍しないやろ。
店を出て、人がばらけていく。
どうしようか考えていたら、ちょうど彼女と目が合った。
『あ……』
一瞬、迷ったような表情。
それから小さく、会釈。
俺は、短く声をかけた。
『堀川……さん、本社行っても、頑張ってな』
『はい。ありがとうございます』
それだけ。
それ以上は、何も言わへんかった。
夜の人混みに紛れていく背中を、少しだけ目で追う。
(……ほんま、頑張りや。堀川葵)
***
でも、まさかや。
本社で再会したとき。
それから、カフェで偶然顔を合わせたとき。
俺は、思ってたよりずっと――。
(……探してる)
仕事中、ふと視線を上げたとき。
人混みの中で、似た背格好を見かけたとき。
(……なんやこれ)
後輩ひとりに、ここまで振り回されるほど暇ちゃう。
新人研修の頃より、ずっと頼もしくなった顔。
それなのに、記憶にしつこく残って離れへんのは、
あのとき見た、泣き顔やった。
あの声。
あの目。
あの笑い方。
思い出すたびに、
胸が、ざわつく。
(……やっぱり、他の男に見せんなや)
さっき、腕の中に閉じ込めたとき、理屈なんて、全部どうでもよくなった。
柔らかな重みと震え、鼻先をかすめる甘い香り。
理性すら吹き飛ぶ危うさすら、全部、離したくなかった。
「……かわええな」
こぼれ落ちたのは、俺らしくもない、余裕のない本音。
再会が「嘘みたい」に感じたんやなくて、
ほんまはもう、
忘れたふりが、出来んようになってただけなんかもしれへん。
堀川葵は
もう「ただの後輩」やない。
わかってるけど、それを認めたら、終わる気がした。
せやから俺は、まだ、
先輩として、上司として。
その立場に、しがみついてる。
――もう、戻られへん。
それだけは、わかってた。
最初は、どうでもええ名前やった。
雪乃と和巳が、やたら可愛がってる新人。
そんな程度の認識やった。
『堀川や松原はガッツあるわよね〜』
仕事終わりの居酒屋で、いつもの同期飲み会。
雪乃の熱弁に、和巳がビール片手に頷く。
『雪乃が褒めるん珍しいなぁ、明日雪降るんちゃう?やめてや〜』
反論する雪乃を尻目に、枝豆のさやを剥いたら、コロンと豆が転がった。
それが、小柄な体で資料を抱え、一生懸命走り回っている彼女の姿に被る。
『ふっ………なんや今の』
怪訝な顔する二人。
『璋、その顔キモい』
『えー酷ないー?一応イケメンなんやけどー』
『ウザい』
気心知れた仲間との楽しい時間……のはずやのに。
スマホが震えたので見ると、母からの着信。
見合いの話やろ、どうせ。
辟易するわ、ほんま。
冷めた目で、画面を伏せる。
こういうときの酒は、味なんかせえへん。
――やのに。
さっきの「堀川」って名前だけが、妙に耳に残った。
それからというもの。
気づけば、視線が、あいつを追ってた。
俺のことは、単なる先輩。
いや、会社の人としか見てへんねんやろうな。
やのに、雪乃や他の奴らが声をかけたら、あんなに柔らかく笑う。
(……なんでや)
ただの先輩と後輩。
(……わかってる)
――それでも。
(なんであの顔、俺には見せへんねん)
その壁をぶち壊して、俺だけにしか見せない顔を引き出したい。
そんな、質の悪い欲が、腹の底でじわじわと熱を持っていた。
***
研修を終えた新人たちの壮行会は、いつもの居酒屋で開かれた。
『寂しくなるなぁ〜。可愛がってただけに』
珍しく感傷的な雪乃の声に、場が和む。
『わかるで、それ。俺も寂しーわぁー』
グラスを掲げると、新人たちが照れたように笑った。
その中に、彼女もいる。
前より少し、表情が柔らかくなっていた。
(……ちゃんとやり切った顔やな)
少し離れた席から、彼女の、あの鈴を転がすような声が聞こえてきた。
『遠距離なんですけど……今日、こっちに来てて』
別の部署の女性社員との、他愛もない会話。
『へぇ、堀川さん彼氏おるんやね』
『はい。なかなか会えないから、今日だけは』
(……あんな顔、他の男に見せんなや)
喉を鳴らして流し込んだビールは、さっきまでよりずっと苦くて、重い。
胸の奥が、わずかに沈んでいく。
あほか。
後輩気にかけるなんて、珍しないやろ。
店を出て、人がばらけていく。
どうしようか考えていたら、ちょうど彼女と目が合った。
『あ……』
一瞬、迷ったような表情。
それから小さく、会釈。
俺は、短く声をかけた。
『堀川……さん、本社行っても、頑張ってな』
『はい。ありがとうございます』
それだけ。
それ以上は、何も言わへんかった。
夜の人混みに紛れていく背中を、少しだけ目で追う。
(……ほんま、頑張りや。堀川葵)
***
でも、まさかや。
本社で再会したとき。
それから、カフェで偶然顔を合わせたとき。
俺は、思ってたよりずっと――。
(……探してる)
仕事中、ふと視線を上げたとき。
人混みの中で、似た背格好を見かけたとき。
(……なんやこれ)
後輩ひとりに、ここまで振り回されるほど暇ちゃう。
新人研修の頃より、ずっと頼もしくなった顔。
それなのに、記憶にしつこく残って離れへんのは、
あのとき見た、泣き顔やった。
あの声。
あの目。
あの笑い方。
思い出すたびに、
胸が、ざわつく。
(……やっぱり、他の男に見せんなや)
さっき、腕の中に閉じ込めたとき、理屈なんて、全部どうでもよくなった。
柔らかな重みと震え、鼻先をかすめる甘い香り。
理性すら吹き飛ぶ危うさすら、全部、離したくなかった。
「……かわええな」
こぼれ落ちたのは、俺らしくもない、余裕のない本音。
再会が「嘘みたい」に感じたんやなくて、
ほんまはもう、
忘れたふりが、出来んようになってただけなんかもしれへん。
堀川葵は
もう「ただの後輩」やない。
わかってるけど、それを認めたら、終わる気がした。
せやから俺は、まだ、
先輩として、上司として。
その立場に、しがみついてる。
――もう、戻られへん。
それだけは、わかってた。



