昼下がりのカフェは、いつも通り穏やかだった。
窓際の席に差し込む光が、ゆっくりとテーブルをなぞっていく。
なのに――
(……落ち着かない)
カップに口をつけても、味がよく分からない。
胸の奥だけが、ずっと薄くざわついたままだ。
ランチから戻る途中、声をかけられた。
『――堀川葵様で、お間違いありませんか』
そこに立っていたのは、年配の男性だった。
整えられたスーツ、無駄のない所作。
左胸の社章に、一目で“こちら側ではない”と分かる空気。
(……四ノ宮の人だ)
『少し、お時間をいただけますか』
気づけば、断る理由も見つからないまま。
あたしは、その人と向かい合って座っていた。
男性は静かに名刺を差し出した。
「四ノ宮家顧問弁護士の、神崎と申します」
(……弁護士)
その肩書きだけで、息が詰まりそうになる。
「単刀直入に申し上げます」
逃げ場のない声だった。
「四ノ宮家に関わる以上、“個人の感情”だけでは済まされません」
言葉は穏やかで、けれど容赦がない。
「璋様は、次代を担うお方です」
視線が、まっすぐにあたしを射抜く。
「あなた様との関係が、その未来にどのような影響を及ぼすか――お考えになったことはございますか」
胸の奥が、ぐらりと揺れる。
(……分かってる)
そんなこと、言われなくても。
「……あります」
声が、少しだけ掠れた。
「ですが、それでも――」
「"それでも"では、済まされないのです」
静かに遮られる。
「四ノ宮の名は、一人の人生で背負えるものではありません」
その一言が、重く落ちた。
「あなた様一人の問題ではないのです」
(……ああ)
感情じゃなくて、理屈で分かってしまう。
「……璋様は、優しい方です」
その言葉に、思わず顔を上げた。
「あなた様を選ぶでしょう」
そう言い切られた瞬間、逃げ道まで塞がれた気がした。
「ですが、それが“正しい選択”とは限りません」
胸が、強く締めつけられる。
「どうか――お考えください」
それだけ言って、神崎さんは席を立った。
残されたのは、冷めかけたコーヒーと。
どうしようもない現実だけだった。
***
帰り道の感覚は、ひどく曖昧だった。
(……決めなきゃ)
分かっている。
璋さんが、どんなふうに笑うのか。
どんなふうに、あたしを大事にしてくれていたのか。
その優しさの先に、何があるのかも。
全部、知ってる。
だから――
「……璋さんの未来を、壊したくない」
ぽつりと、零れた言葉と涙は、驚くほど静かだった。
優しいから。
大切だから。
好きだから。
(……だからこそ)
選ばなきゃいけない。
あたしが。
***
次の日。
「相談したいことがある」と伝えて、璋さんに小ブースへ来てもらった。
扉の向こうに現れたのは、鷹宮主任の顔。
「どうした?」
会社なのに、優しい声。
それだけで、全部が崩れそうになる。
(……だめ)
ここで泣いたら、終わる。
「……あの、家では会えないから」
声を整える。
「……私用の話があります」
空気が、わずかに張り詰める。
「……なに?」
いつも通りの声に、ほんの少しだけ混じる警戒。
(……気づいてる)
この人は、きっともう分かってる。
それでも、あたしが口にするのを待ってる。
「……あたし」
言葉が喉に引っかかるも、逃げない。
「……璋さんと、一緒にいられません」
静かに、言い切った。
数秒、何も音がしなかった。
「……は?」
低く落ちた声は、信じていない響き。
「どういう意味?」
まっすぐ向けられる視線から、逃げたくなる。
でも――
「……そのままの意味です」
あたしは震えを、必死に押さ込む。
「もう、会わないほうがいいと思います」
決めたことなのに、心が軋む。
「……理由は?」
優しくない声が、こんなにも痛くて苦しい。
(……当然だ)
それでも。
「……あたしには、無理です」
それ以上は言わない。
言ったら、全部壊れる。
「何が」
一歩、距離が詰まる。
「何が無理なん」
低く抑えた声に、逃げ場がなくなる。
(……言わない)
ここで理由を言えば、
この人はきっと――全部、背負ってしまうから。
「……すみません」
それだけしか、言えなかった。
どんな言葉を紡いでも、それはただの足枷にしかならない。
沈黙が、重く落ちる。
「……葵」
名前を呼ばれるだけで、足が止まりそうになる。
「……それで終わり?」
かすかに震えた声。
(……やめて)
そんな声、知らない。
「……はい」
嘘。
全部、嘘って叫びたい。
でも――
「もう、決めました」
迷いを隠すよう、言い切る。
それが、あたしの選択だから。
「……そうか」
そう言うまでに、ほんの一拍、間があった。
それ以上、何も言わない。
引き止めないし、責めない。
この人は、最後まで優しい。
だからこそ。
(……これでいい)
振り返らず、ドアに手をかける。
「……葵」
もう一度、今度はいつもと同じ。
その声に、堪え切れなくなる。
「……幸せになれよ」
それが、最後の優しさみたいで。
優しいくせに、もう二度と戻れない場所へ押し出す言葉みたいで。
その一言で、世界が静かに壊れた。
(……むり)
それでも、ちゃんと笑わないとだめだから。
せめて、最後くらいは困らせたくなかった。
「……ありがとう、ございます……」
震えながらも、声はちゃんと出た。
ドアを開ける。
閉まる音が、やけに大きく響いた。
***
外に出た瞬間、息ができなくなった。
足はうまく歩けないのに、涙はうまく止まらない。
「……っ、……っふ……」
声にならない呼吸が、漏れる。
それでも、振り返らなかった。
(……だって)
振り返ったら、全部、終わるから。
(……璋さんなら、きっと気づく)
優しさで選んだはずなのに。
どうしようもなく、痛かった。
***
――優しさなんかじゃ、守られへん。
ドアが閉まる音が、やけに長く残った。
静まり返った室内。
さっきまでそこにいたはずの温度が、もうない。
「……はぁ」
(……葵)
イスに腰を下ろして、天井を見上げる。
頭は、妙に冷静だった。
(……『無理です』、か)
あの瞬間より、今のほうが、ずっと痛い。
「……嘘やな」
あいつは、あんな顔で、
あんな言い方で、
本音を言えるやつちゃう。
(理由、言わへんかったな)
それが答えや。
「……ほんま、アホやな俺」
分かってたのに。
それでも、葵に選ばせてもうた。
あいつが一人で抱えるには、重すぎたのに。
「……そら、逃げるわ」
でも。
「それ、優しさちゃうやろ」
「勝手に、俺の人生軽くすんな」
胸の奥が、じわじわと熱を持っていく。
「守るために離す、やと?」
(そんなもんで守れるくらい軽い人生ちゃうわ)
(全部背負うって決めたん、俺やろ)
勝手に家でて、葵を置き去りにしたくせに。
なんでお前が、勝手に降りんねん。
「……ふざけんな」
「葵」
届かない距離で、名前を呼ぶ。
それでも。
「絶対、逃がさへん」
「逃げてもええ……でも戻る先は俺」
「――俺が選んだんは、お前や」
もう、迷いはなかった。
葵を追う前に、俺が片づけなあかんもんがある。
四ノ宮の名前も、見合いも、全部。
逃げずに、俺の口で終わらせる。
そうせな、今度こそまた、優しさのふりして葵に身を引かせてまう。
「……待ってろ、葵」
俺は、迷いなく茉白に電話をかけた。
窓際の席に差し込む光が、ゆっくりとテーブルをなぞっていく。
なのに――
(……落ち着かない)
カップに口をつけても、味がよく分からない。
胸の奥だけが、ずっと薄くざわついたままだ。
ランチから戻る途中、声をかけられた。
『――堀川葵様で、お間違いありませんか』
そこに立っていたのは、年配の男性だった。
整えられたスーツ、無駄のない所作。
左胸の社章に、一目で“こちら側ではない”と分かる空気。
(……四ノ宮の人だ)
『少し、お時間をいただけますか』
気づけば、断る理由も見つからないまま。
あたしは、その人と向かい合って座っていた。
男性は静かに名刺を差し出した。
「四ノ宮家顧問弁護士の、神崎と申します」
(……弁護士)
その肩書きだけで、息が詰まりそうになる。
「単刀直入に申し上げます」
逃げ場のない声だった。
「四ノ宮家に関わる以上、“個人の感情”だけでは済まされません」
言葉は穏やかで、けれど容赦がない。
「璋様は、次代を担うお方です」
視線が、まっすぐにあたしを射抜く。
「あなた様との関係が、その未来にどのような影響を及ぼすか――お考えになったことはございますか」
胸の奥が、ぐらりと揺れる。
(……分かってる)
そんなこと、言われなくても。
「……あります」
声が、少しだけ掠れた。
「ですが、それでも――」
「"それでも"では、済まされないのです」
静かに遮られる。
「四ノ宮の名は、一人の人生で背負えるものではありません」
その一言が、重く落ちた。
「あなた様一人の問題ではないのです」
(……ああ)
感情じゃなくて、理屈で分かってしまう。
「……璋様は、優しい方です」
その言葉に、思わず顔を上げた。
「あなた様を選ぶでしょう」
そう言い切られた瞬間、逃げ道まで塞がれた気がした。
「ですが、それが“正しい選択”とは限りません」
胸が、強く締めつけられる。
「どうか――お考えください」
それだけ言って、神崎さんは席を立った。
残されたのは、冷めかけたコーヒーと。
どうしようもない現実だけだった。
***
帰り道の感覚は、ひどく曖昧だった。
(……決めなきゃ)
分かっている。
璋さんが、どんなふうに笑うのか。
どんなふうに、あたしを大事にしてくれていたのか。
その優しさの先に、何があるのかも。
全部、知ってる。
だから――
「……璋さんの未来を、壊したくない」
ぽつりと、零れた言葉と涙は、驚くほど静かだった。
優しいから。
大切だから。
好きだから。
(……だからこそ)
選ばなきゃいけない。
あたしが。
***
次の日。
「相談したいことがある」と伝えて、璋さんに小ブースへ来てもらった。
扉の向こうに現れたのは、鷹宮主任の顔。
「どうした?」
会社なのに、優しい声。
それだけで、全部が崩れそうになる。
(……だめ)
ここで泣いたら、終わる。
「……あの、家では会えないから」
声を整える。
「……私用の話があります」
空気が、わずかに張り詰める。
「……なに?」
いつも通りの声に、ほんの少しだけ混じる警戒。
(……気づいてる)
この人は、きっともう分かってる。
それでも、あたしが口にするのを待ってる。
「……あたし」
言葉が喉に引っかかるも、逃げない。
「……璋さんと、一緒にいられません」
静かに、言い切った。
数秒、何も音がしなかった。
「……は?」
低く落ちた声は、信じていない響き。
「どういう意味?」
まっすぐ向けられる視線から、逃げたくなる。
でも――
「……そのままの意味です」
あたしは震えを、必死に押さ込む。
「もう、会わないほうがいいと思います」
決めたことなのに、心が軋む。
「……理由は?」
優しくない声が、こんなにも痛くて苦しい。
(……当然だ)
それでも。
「……あたしには、無理です」
それ以上は言わない。
言ったら、全部壊れる。
「何が」
一歩、距離が詰まる。
「何が無理なん」
低く抑えた声に、逃げ場がなくなる。
(……言わない)
ここで理由を言えば、
この人はきっと――全部、背負ってしまうから。
「……すみません」
それだけしか、言えなかった。
どんな言葉を紡いでも、それはただの足枷にしかならない。
沈黙が、重く落ちる。
「……葵」
名前を呼ばれるだけで、足が止まりそうになる。
「……それで終わり?」
かすかに震えた声。
(……やめて)
そんな声、知らない。
「……はい」
嘘。
全部、嘘って叫びたい。
でも――
「もう、決めました」
迷いを隠すよう、言い切る。
それが、あたしの選択だから。
「……そうか」
そう言うまでに、ほんの一拍、間があった。
それ以上、何も言わない。
引き止めないし、責めない。
この人は、最後まで優しい。
だからこそ。
(……これでいい)
振り返らず、ドアに手をかける。
「……葵」
もう一度、今度はいつもと同じ。
その声に、堪え切れなくなる。
「……幸せになれよ」
それが、最後の優しさみたいで。
優しいくせに、もう二度と戻れない場所へ押し出す言葉みたいで。
その一言で、世界が静かに壊れた。
(……むり)
それでも、ちゃんと笑わないとだめだから。
せめて、最後くらいは困らせたくなかった。
「……ありがとう、ございます……」
震えながらも、声はちゃんと出た。
ドアを開ける。
閉まる音が、やけに大きく響いた。
***
外に出た瞬間、息ができなくなった。
足はうまく歩けないのに、涙はうまく止まらない。
「……っ、……っふ……」
声にならない呼吸が、漏れる。
それでも、振り返らなかった。
(……だって)
振り返ったら、全部、終わるから。
(……璋さんなら、きっと気づく)
優しさで選んだはずなのに。
どうしようもなく、痛かった。
***
――優しさなんかじゃ、守られへん。
ドアが閉まる音が、やけに長く残った。
静まり返った室内。
さっきまでそこにいたはずの温度が、もうない。
「……はぁ」
(……葵)
イスに腰を下ろして、天井を見上げる。
頭は、妙に冷静だった。
(……『無理です』、か)
あの瞬間より、今のほうが、ずっと痛い。
「……嘘やな」
あいつは、あんな顔で、
あんな言い方で、
本音を言えるやつちゃう。
(理由、言わへんかったな)
それが答えや。
「……ほんま、アホやな俺」
分かってたのに。
それでも、葵に選ばせてもうた。
あいつが一人で抱えるには、重すぎたのに。
「……そら、逃げるわ」
でも。
「それ、優しさちゃうやろ」
「勝手に、俺の人生軽くすんな」
胸の奥が、じわじわと熱を持っていく。
「守るために離す、やと?」
(そんなもんで守れるくらい軽い人生ちゃうわ)
(全部背負うって決めたん、俺やろ)
勝手に家でて、葵を置き去りにしたくせに。
なんでお前が、勝手に降りんねん。
「……ふざけんな」
「葵」
届かない距離で、名前を呼ぶ。
それでも。
「絶対、逃がさへん」
「逃げてもええ……でも戻る先は俺」
「――俺が選んだんは、お前や」
もう、迷いはなかった。
葵を追う前に、俺が片づけなあかんもんがある。
四ノ宮の名前も、見合いも、全部。
逃げずに、俺の口で終わらせる。
そうせな、今度こそまた、優しさのふりして葵に身を引かせてまう。
「……待ってろ、葵」
俺は、迷いなく茉白に電話をかけた。



