目が覚めたとき、隣にあるはずの体温は、もうなかった。
「……璋さん」
名前を呼んでも、返事はない。
当たり前なのに、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
スマホに手を伸ばす。
けれど、画面には何の通知も浮かんでいない。
(……仕事、だよね)
そう思って、そっと伏せる。
でも。
その"当たり前のはずの理由"が、今日はどうしても胸の中に落ちてこなかった。
ダイニングに向かい、いつものように彼のカフェオレも淹れる。
湯気はやわらかく立ちのぼるのに、ひとくち飲んだそれは、ひどく味気なかった。
「…………苦い」
彼が好きな、甘いはずの味だった。
***
午前の業務が始まっても、落ち着かないままだった。
資料を抱えてフロアを横切った、そのとき。
「……あ」
視線が合うと思った。
でも、ほんのわずかに。
璋さんは、あたしから目を逸らした。
まるで最初から、そこにあたしなんていなかったみたいに。
(……あたし、避けられてる?)
呼び止めようとして、声が喉の奥で止まる。
その間に、璋さんはもう別の社員へ指示を飛ばしていた。
「この件、午後までに頼めるか」
「はい、鷹宮主任」
低く落ち着いた声。
冷静で、端的で、隙のない、いつもの鷹宮主任。
――なのに。
あたしに向いていたはずの熱だけが、きれいに消えていた。
午後の会議室も同じだった。
説明のために立って、資料をめくる。
視界の端にいるはずの人が、一度もこちらを見ない。
名前を呼ばれても、必要最低限のやり取りだけ。
頷きも、表情も、どこか遠い。
「以上です」
言い終えても、璋さんは何も言わなかった。
一拍遅れて、他の上司が「問題なし」と口にする。
それで終わり。
――あたしには、一言もないまま。
(……おかしい)
胸の奥で、何かが、はっきりと形を持ちはじめていた。
***
会議室を片付けて、出ようとしたとき。
「……堀川、ちょっといいか」
振り返ると、真鍋さんがいつになく真面目な顔をしていた。
「……どうしましたか?」
少し迷うように視線を逸らしてから、観念したように口を開く。
「……あいつのことだ」
その一言で、心臓が嫌な音を立てた。
「璋、来週……見合いに行く」
「……え」
一瞬、意味が分からなかった。
「相手は宝生グループのお嬢さん。……もう話は、だいぶ進んでる」
頭の中が真っ白になる。
「なんで……」
掠れた声が、勝手に零れた。
真鍋さんは、少しだけ目を細める。
「……言わなかったんだな、あいつ」
責めるでもなく、ただ苦い顔で呟く。
「……あいつなりに、守ろうとしてるつもりなんだと思う」
「守る……?」
「でもな」
真鍋さんの目が、真っ直ぐにあたしを見る。
「それで守られてる側が、納得できるかどうかは別だろ」
その言葉が、胸のいちばん深いところに突き刺さった。
***
退勤時間になり、あたしは帰宅準備をする。
(……考えがまとまらない)
雪乃先輩に挨拶し、エレベーターに乗り込んだ。
スマホを握る手に力が入る。
璋さんへメッセージを送る勇気も、電話をかける勇気もないまま、ただ画面を見つめていた、そのとき。
「こんな形で会うのは失礼だと思ったんですが、他に方法がなくて」
「……堀川さん、で合ってますか?」
呼ばれて顔を上げる。
会社の目の前に立っていたのは、あたしより少し年上くらいの男性だった。
柔らかな物腰。穏やかな声。けれど、瞳の奥には強い意志がある。
「急に呼び止めて、すみません」
戸惑う中、その人は静かに名乗った。
「僕は、鳥居茉尋(とりい まひろ)といいます」
丁寧に差し出された名刺には、学校名が並んでいる。
「高校の先生が……あたしに何か?」
「僕は……宝生茉白さんと、お付き合いしています」
「えっ……」
その名前に息が止まる。
「璋さんの……お見合い相手の?」
「そうです。――婚約者の彼氏、というやつですね」
その肯定は、あまりにも静かだった。
「お見合いのことは、ご存知でしょうか」
知っている。
さっき、聞いたばかりだ。
まだちゃんと受け止めきれていない、それを。
鳥居さんは、そんなあたしの動揺を見つめながら、けれど言葉を選ぶように続けた。
「よければ僕と一緒に、お見合いに乗り込みませんか」
「……え?」
「僕は茉白さんを愛している」
(……この人は、逃げてない)
璋さんみたいに、一人で抱え込んだりしないで。
「あなたは、四ノ宮くんを愛しているでしょう?」
愛している――
その言葉は、今のあたしには眩しすぎた。
否定できない。
胸の奥でずっと誤魔化していた気持ちが、そこで初めて輪郭を持った。
「なるほど、璋の……ねぇ……」
振り返ると、腕を組んでこちらをみている雪乃先輩。
品定めするように茉尋さんへ一歩近づく。
「いい? 堀川はね、あんたたちの政略の道具じゃないわよ。……この子を泣かしたら、璋より先に私が潰すからね」
「……肝に銘じます」
鳥居さんの覚悟を確かめるような雪乃先輩の横顔。
「決心がついたら、連絡下さい。それでは」
そう言うと、鳥居さんは人混みの中に消えていった。
***
冬の空気はひどく冷たかった。
でも頭の中は、不思議なくらい冴えている。
スマホを取り出す。
震える指で、電話をかけた。
数回のコールのあと、繋がる。
「……堀川です」
自分の声なのに、驚くほど静かだった。
「鳥居さん。先ほどのお話……お受けします」
少しだけ、間があく。
電話の向こうで、息をのむ気配がした。
「……あたしを、お見合いの場所に連れていってください」
守るために突き放すなんて、勝手すぎる。
あたしの「好き」を置いて、
一人で終わらせるなんて――許さない。
あたしは――
四ノ宮璋という男を、奪う。
見上げた夜空の先で、
冬の星は、凍るみたいに冷たく、
それでも負けない光で瞬いていた。
(……でも)
その覚悟が、本当に正しいのか、
まだどこかで、迷っていた。
「……璋さん」
名前を呼んでも、返事はない。
当たり前なのに、胸の奥が、きゅっと痛んだ。
スマホに手を伸ばす。
けれど、画面には何の通知も浮かんでいない。
(……仕事、だよね)
そう思って、そっと伏せる。
でも。
その"当たり前のはずの理由"が、今日はどうしても胸の中に落ちてこなかった。
ダイニングに向かい、いつものように彼のカフェオレも淹れる。
湯気はやわらかく立ちのぼるのに、ひとくち飲んだそれは、ひどく味気なかった。
「…………苦い」
彼が好きな、甘いはずの味だった。
***
午前の業務が始まっても、落ち着かないままだった。
資料を抱えてフロアを横切った、そのとき。
「……あ」
視線が合うと思った。
でも、ほんのわずかに。
璋さんは、あたしから目を逸らした。
まるで最初から、そこにあたしなんていなかったみたいに。
(……あたし、避けられてる?)
呼び止めようとして、声が喉の奥で止まる。
その間に、璋さんはもう別の社員へ指示を飛ばしていた。
「この件、午後までに頼めるか」
「はい、鷹宮主任」
低く落ち着いた声。
冷静で、端的で、隙のない、いつもの鷹宮主任。
――なのに。
あたしに向いていたはずの熱だけが、きれいに消えていた。
午後の会議室も同じだった。
説明のために立って、資料をめくる。
視界の端にいるはずの人が、一度もこちらを見ない。
名前を呼ばれても、必要最低限のやり取りだけ。
頷きも、表情も、どこか遠い。
「以上です」
言い終えても、璋さんは何も言わなかった。
一拍遅れて、他の上司が「問題なし」と口にする。
それで終わり。
――あたしには、一言もないまま。
(……おかしい)
胸の奥で、何かが、はっきりと形を持ちはじめていた。
***
会議室を片付けて、出ようとしたとき。
「……堀川、ちょっといいか」
振り返ると、真鍋さんがいつになく真面目な顔をしていた。
「……どうしましたか?」
少し迷うように視線を逸らしてから、観念したように口を開く。
「……あいつのことだ」
その一言で、心臓が嫌な音を立てた。
「璋、来週……見合いに行く」
「……え」
一瞬、意味が分からなかった。
「相手は宝生グループのお嬢さん。……もう話は、だいぶ進んでる」
頭の中が真っ白になる。
「なんで……」
掠れた声が、勝手に零れた。
真鍋さんは、少しだけ目を細める。
「……言わなかったんだな、あいつ」
責めるでもなく、ただ苦い顔で呟く。
「……あいつなりに、守ろうとしてるつもりなんだと思う」
「守る……?」
「でもな」
真鍋さんの目が、真っ直ぐにあたしを見る。
「それで守られてる側が、納得できるかどうかは別だろ」
その言葉が、胸のいちばん深いところに突き刺さった。
***
退勤時間になり、あたしは帰宅準備をする。
(……考えがまとまらない)
雪乃先輩に挨拶し、エレベーターに乗り込んだ。
スマホを握る手に力が入る。
璋さんへメッセージを送る勇気も、電話をかける勇気もないまま、ただ画面を見つめていた、そのとき。
「こんな形で会うのは失礼だと思ったんですが、他に方法がなくて」
「……堀川さん、で合ってますか?」
呼ばれて顔を上げる。
会社の目の前に立っていたのは、あたしより少し年上くらいの男性だった。
柔らかな物腰。穏やかな声。けれど、瞳の奥には強い意志がある。
「急に呼び止めて、すみません」
戸惑う中、その人は静かに名乗った。
「僕は、鳥居茉尋(とりい まひろ)といいます」
丁寧に差し出された名刺には、学校名が並んでいる。
「高校の先生が……あたしに何か?」
「僕は……宝生茉白さんと、お付き合いしています」
「えっ……」
その名前に息が止まる。
「璋さんの……お見合い相手の?」
「そうです。――婚約者の彼氏、というやつですね」
その肯定は、あまりにも静かだった。
「お見合いのことは、ご存知でしょうか」
知っている。
さっき、聞いたばかりだ。
まだちゃんと受け止めきれていない、それを。
鳥居さんは、そんなあたしの動揺を見つめながら、けれど言葉を選ぶように続けた。
「よければ僕と一緒に、お見合いに乗り込みませんか」
「……え?」
「僕は茉白さんを愛している」
(……この人は、逃げてない)
璋さんみたいに、一人で抱え込んだりしないで。
「あなたは、四ノ宮くんを愛しているでしょう?」
愛している――
その言葉は、今のあたしには眩しすぎた。
否定できない。
胸の奥でずっと誤魔化していた気持ちが、そこで初めて輪郭を持った。
「なるほど、璋の……ねぇ……」
振り返ると、腕を組んでこちらをみている雪乃先輩。
品定めするように茉尋さんへ一歩近づく。
「いい? 堀川はね、あんたたちの政略の道具じゃないわよ。……この子を泣かしたら、璋より先に私が潰すからね」
「……肝に銘じます」
鳥居さんの覚悟を確かめるような雪乃先輩の横顔。
「決心がついたら、連絡下さい。それでは」
そう言うと、鳥居さんは人混みの中に消えていった。
***
冬の空気はひどく冷たかった。
でも頭の中は、不思議なくらい冴えている。
スマホを取り出す。
震える指で、電話をかけた。
数回のコールのあと、繋がる。
「……堀川です」
自分の声なのに、驚くほど静かだった。
「鳥居さん。先ほどのお話……お受けします」
少しだけ、間があく。
電話の向こうで、息をのむ気配がした。
「……あたしを、お見合いの場所に連れていってください」
守るために突き放すなんて、勝手すぎる。
あたしの「好き」を置いて、
一人で終わらせるなんて――許さない。
あたしは――
四ノ宮璋という男を、奪う。
見上げた夜空の先で、
冬の星は、凍るみたいに冷たく、
それでも負けない光で瞬いていた。
(……でも)
その覚悟が、本当に正しいのか、
まだどこかで、迷っていた。



