鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

嵐山で過ごしたお正月が、もう遠い夢みたいだった。
——なのに。

「鷹宮主任、資料をお持ちしました」

「ありがとう。そこに置いといて」
 
​パソコンの画面から目を逸らさず、短く返される声。
いつもと同じ言葉。 いつもと同じ声音。
――なのに、目が合わない。
 
(……今の、なに)

ほんの些細なことのはずなのに。
胸の奥に、小さな棘が刺さったみたいに引っかかった。 
  
​あの日、いのさんのご挨拶から戻ってきた璋さんが、『四ノ宮のばあちゃんやねん……葵も今度、紹介するわ』と少し疲れた顔で教えてくれた。
 
でも、それからの璋さんは、どことなくよそよそしい。
普通に会話もするし、ご飯も一緒に食べる。
触れているのに、遠い。

「今日の資料、どこか不備がありましたか?」
 
「ん?……いや、上出来やったで」
 
「そうでしたか……」

会話は成立しているのに、続かない。
 
(前は、もっと……自然に、笑えてたのに)
  
「珍しいやん、葵が家で仕事の話するん。どしたん?」
 
不意に向けられた声に、少しだけ救われる。
けれど。
 
(……違う)
 
どこが、とは言えない。
ただ、いつもの距離じゃない。
その時、璋さんのスマホが鳴った。 

「悪い、ちょっと出るわ」

立ち上がる背中が、わずかに強張って見えた。
閉まったドアの向こう側。
低く押し殺した声が、かすかに漏れてくる。

「……分かってる」

次に聞こえた言葉は、聞き取れなかった。
ただ、いつもの璋さんの声じゃない。

(……仕事の電話、だよね)
 
そう思いたいのに。
胸の奥のざわつきは、収まらなかった。
   
「お待たせ」

戻ってきた彼の気配に、少しだけ肩の力が抜ける。
再びドライヤーの温風が髪を揺らす。
その流れに合わせて、指先が触れる。
 
――はず、だった。
 
そっと撫でられているのに。
優しいはずなのに。
 
(……遠い)
 
触れているのに、届かない。
 
「ん、乾いたで」

「……璋さん」

呼ぶと、彼は「ん?」といつも通りの優しい声で振り返る。
ほんの少しだけ、背伸びをする。

――キス、してほしくて。

けれど。
唇が触れる直前で、ふわりと逸らされて。
落ちてきたのは、優しく触れるだけの、髪への口づけだった。

(……なんで、逸らしたんだろう) 

「……風邪ひくで、先に寝とき」

何事もなかったみたいな声音。
ほんの一瞬のことなのに。
気のせいだと思うたび、胸の奥の違和感だけが、消えなかった。

***
 
その違和感は、消えるどころか、ゆっくりと確かな形を持ちはじめていた。
 
あの日を境に、璋さんは変わった。
   
言葉は、必要最低限。
 
​同じ空間にいるのに、 どこか別の場所にいるみたいに遠い。
 
一緒に食卓を囲んでも、 会話は続かない。
 
(……前は、違ったのに)
 
朝、目を覚ましたとき。
隣にあるはずの体温は、もうない。
シーツに残るわずかな皺だけが、そこにいたかもしれない証拠みたいに残っている。

(……この皺が消えたら、本当にあの日々はなかったことになってしまう)

そんな恐怖に駆られて、あたしは冷えたままの彼の場所に、そっと身を寄せた。
 
気付けば、朝の「充電」のキスも、
玄関での「いってらっしゃい」も。
 
(……最初から、なかったみたい)
 
あんなに近くにいたのに。
今はもう、 触れることすらできない距離にいるみたいで。
 
彼と暮らしているはずなのに、あたしは世界で一番孤独な場所にいる気がした。

『あんたたち、ケンカでもした?』と雪乃先輩には言われたけれど。
ケンカのほうが、よっぽどいい。
だって理由が分かるから、解決できる。

でも……そうじゃない。    
 
(……あたし、嫌われた?)
 
​冷めていくコーヒーの湯気を見つめながら、あたしの胸の奥には、正体のわからない不安がじわじわと毒みたいに回り始めていた。
 
***
 
確かめる勇気を持てないまま、気付けば週末になっていた。

「おはよう……ございます……会社?」

リビングに立つスーツ姿に、 思わずそう声をかける。 
  
「ちょっと、用があって四ノ宮の本邸に行ってくるわ」

「そうなんですね……」

少しだけ迷ってから、口を開く。

「……晩ごはん、何がいいですか?」

やっと、ゆっくり一緒に食べられると思ったから。
けれど。  
 
「いや、しばらく帰らんから……」
 
――え。
一瞬、意味が分からなかった。 

「堀川ちゃんもたまには、ゆっくりし」

その呼び方に、 胸がきゅっと締めつけられる。
  
「璋さんっ?!……」

あたしの抗議は、シトラスの香りに掻き消された。
強く抱きしめられる。

なのに。
その腕は――どこか、弱い。
 
「じゃあ……」
 
それ以上、何も言わずに、離れていく。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
  
追いかければいいのに。

どうしてか、
足が、動いてくれなかった。

――触れられたのに、突き放されたみたいだった。

***
  
閉まったドアの向こう側。
廊下に一人立った俺は、震える手で口元を覆った。
ポケットの中で、スマホが震える。

――見なくても分かる。

「……クソッ」

強く拳を握りしめる。
今すぐ戻って、あの温もりを抱きしめたい。

(……あかん)

一度でも触れたら、 全部、壊れる。
優しさを向けた瞬間、 決めたはずの覚悟が揺らぐ。
 
だから。
振り返らへん。
 
――それが、俺が葵についた
優しいふりをした、最低な嘘。
 
俺は、そのまま歩き出した。