狂おしいほどの熱が引いた後の寝室は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
カーテンの隙間から射し込む月光が、深い眠りに落ちた葵を蒼く静かに照らしている。
さっきまで俺の名前を呼んで震えていた唇は、今はもう、規則正しい寝息に変わっていた。
(……愛せることなんか、もう忘れてたと思ってたんやけどな)
指先で、汗ばんだ彼女の額をそっとよける。
触れた体温はたしかで、甘く乱れた髪からは、まだ彼女の匂いがした。
たったそれだけのことやのに、胸の奥がどうしようもなく満たされる。
苦しいくらい、甘くて、痛い。
初めてやない。
なのに、初めて以上に焦がれて、初めて以上に失いたくなくて、初めて以上に怖かった。
(三十路にもなって……名前だけで泣きそうになるとか……)
(ほんま……初恋みたいやん)
ふと、視線を落とすと、脱ぎ捨てたシャツが目に入った。
袖口には、葵が贈ってくれた白蝶貝のカフスボタン。
月光を吸い込んで、静かに、それでもたしかに光っている。
それを見ていると、嫌でも思い出す。
――誕生日。
それは、俺にとって祝われる日やのうて、見定められる日やった。
物心ついた頃から、東京のホテルの豪華な宴会場で開かれる、名刺交換のような一日
「おめでとう」と笑う大人たちの顔は、どれも同じで、どれも薄っぺらくて、どれも嘘くさかった。
子どもたちでさえ、近づいてくる理由は一つや。
俺が、四ノ宮家の御曹司やから。
俺も俺で、求められてる役割くらい、幼いなりに分かってた。
愛想よく笑って、そつなく振る舞って、期待される「四ノ宮 璋」を演じることくらい、難しくなかった。
(でも、気持ちは……とっくに死んでたな)
両親は二人とも医者で、家におる時間は少なかった。
仲が悪いわけやないし、家族の形が壊れてたわけでもない。
ただ、あの家に“温度”はあんまりなかった。
ハウスキーパーがいて、母方の祖父母がときどき様子を見にきて、生活に困ることなんか何一つなかった。
けど、満たされることとも、守られることとも、少し違った。
――ただ、四ノ宮の人間の中でも、一人だけ例外がおった。
何も持ってへん日も。
何もできへん日も。
上手く笑われへん日も。
「おかえり」って、変わらん顔で迎えてくれた。
その“たった一人”がおったから、俺は完全には腐らんで済んだんかもしれへん。
学校で友達の誕生日の話を聞くたび、羨ましかった。
プレゼントが欲しいんやない。
豪華なパーティーがしたいんやない。
ただ、“四ノ宮の誰か”やなくて、
“俺”として祝われたかった。
元カノたちも、結局そうやった。
見てたのは俺やない。
欲しかったのは「四ノ宮」という看板と、そこにぶら下がってる容姿とか肩書きとか、そういうブランド付きの男。
贈られたものは、どれも嬉しくなかった。
むしろ、繋ぎ止めるための鎖に見えた。
重なる肌も、甘い声も、「好き」も「愛してる」も。
繰り返されるほど軽くなって、だんだん意味を失って、最後にはただのBGMになった。
――そして、何より反吐が出たんは。
幼い頃、あんなに嫌いやった大人たちの笑顔を、
いつの間にか自分も鏡の前で完璧に作れるようになっていたことや。
相手が欲しがる「四ノ宮 璋」を演じて、
上辺だけの優しさを与えて、本心には誰も近づけへん。
鏡に映る自分を見るたび、冷たくて、空っぽで、無機質で。
たぶん、俺自身が一番、俺に絶望してた。
だから会社では、四ノ宮やなく鷹宮を名乗った。
母方の旧姓。
継ぐ気なんか、最初からなかった。
伯父のところには娘も、その婿もおる。俺が出る幕やないと思ってたし、何より――
四ノ宮の名を出した瞬間に変わる目が、嫌やった。
期待。打算。やっかみ。
値踏み。
勝手に背負わされる役割。
せめて会社では、
“四ノ宮”やない自分で息をしたかった。
けど、周りはそう思ってへん。
会長も、伯父も、あの人も。
みんな、俺に背負わせる気でおる。
仄暗くて、冷たい海の底を、ずっとひとりで漂ってるみたいやった。
誰にも触れさせず、誰にも期待せず。
そうしてれば、傷つかんで済むと思ってた。
――でも。
腕の中の温もりに、もう一度視線を戻す。
「……葵が思ってる以上に、俺のほうが重いで」
もし全部知ったら。
この名前の重さも、家のしがらみも、俺の執着も。
――逃げ出すかもしれへんな。
寝返りを打った葵が、無意識に俺の胸元へすり寄ってくる。
それだけで、息が詰まりそうになる。
そっと口づけようとした、そのとき。
テーブルの上のスマホが震えた。
(伯父さん……もうすぐ0時やぞ、誰が出るか)
表示を見ただけで、うんざりする。
無視したら、今度はメッセージが届いた。
(今度は……四ノ宮の本家からかよ)
喉の奥で、小さく舌打ちする。
けれど今日は、もう何も考えたくなかった。
明日の俺に押しつけて、スマホを伏せる。
無防備な重みを抱えたまま、俺はようやく認める。
自分の運命が、もう後戻りできへん場所まで染まってることを。
***
朝起きたあとの葵は、反則なくらい可愛かった。
『恥ずかしいからあっち向いて』とか『先に支度してくださいっ』とか。
俺が部屋出るまで、ずっと布団にくるまってたしな。
ひょっこり顔だけ出してたんも、なんていうかいじらしくて可愛い。
「思い出してニヤけてるとか……昨夜は随分とお楽しみで」
「当たり前やろ、反芻するくらいさせろや」
「珍しい!璋が、はぐらかさない!」
駅前で雪乃にばったり会ったんが運の尽きやった。
昨日の会議中の失態を知られてる以上、いっそ開き直った方が早い。
誕生日どうやったん、って聞かれて、今朝の可愛い葵を思い出してたところや。
「ま、でも良かったわ、ちゃんと「誕生日」になって」
雪乃にしては珍しく真面目なトーン。
大学時代からの付き合いやから、あの頃の恋愛事情も、実家のことも、こいつはそれなりに知ってる。
『璋がいつか惚気てくれる日、楽しみにしてるわ』
昔、雪乃にそう言われたことを思い出す。あの頃の雪乃に、言われたことを覚えてる。
「せやな……正直、欲しかったもん以上を葵はくれた」
そう答えると、雪乃はふっと笑って、すぐに真顔になった。
「じゃ、手放さないで目一杯大事にしなさいよ?ほーりーを泣かせたら、マジで沈めるからね」
「言われんでも、そのつもりや」
入館証を出した瞬間、俺はいつもの「鷹宮主任」の仮面を完璧に被り直した。
背筋を伸ばして、余計な感情は全部しまい込む。
それでも、袖口に忍ばせた白蝶貝の重みだけが、
昨夜の熱が夢やなかったことを教えてきた。
***
雪乃と別れてフロアに入ると、和巳が書類を持ってやってきた。
「おはよ。……璋、お前今日えらい顔が緩んでるな」
「……そうか? 別に普通だろ」
「嘘つけ。さっき雪乃から『はぐらかさない璋なんて気味が悪い、見てみて!』ってメッセが来てた」
和巳が呆れたように笑う。
こいつも雪乃と同じで、昔からの付き合いや。
「……和巳、お前こそ雪乃をどうするんだ?あいつの恋心、薄々気づいてるだろ」
「俺のことはいいんだよ、ほっとけ」
視線を逸らす和巳に、柄にもなく口角が上がる。
前やったら、他人の恋路なんかどうでもよかったのに。
「……変わったな、お前。人のことに首突っ込むタイプじゃなかっただろ」
「……そうだな。誰かさんの影響だな」
鏡の前で作った笑顔やなくて、
ただ葵を思い浮かべるだけで、自然にこぼれてしまう笑み。
そんな空気を裂いたのは、デスクの内線やった。
表示された番号を見た瞬間、血の気が引く。
「社長室」。
部下に「少し離席する」と伝えて、和巳にも声をかける。
「……和巳、悪い。行ってくる」
「社長室からか? ……気をつけろよ」
その言葉を背中で受けながら、俺はエレベーターへ向かった。
上階へ上がるわずかな時間。
鏡張りの壁に映る自分を見つめて、感情を消す。
眉間の皺をのばし、表情を整えて、「鷹宮主任」を作る。
秘書課に一礼し、重厚な扉をノックする。
「よぅ! 璋ー!」
部屋の主――四ノ宮社長は、椅子に深く腰掛けたまま、身内特有の馴れ馴れしさで俺を呼んだ。
「……社長、ここでは『鷹宮』です」
「堅いこと言うな、ここには俺とお前しかいないから」
その言葉に、俺は小さく溜息をついた。
社内では“冷徹なエリート”で通してる俺も、この男の前ではただの甥っ子や。
どうせ取り繕っても意味ない。
「…………で? 伯父さん、呼び出してまで何の用なん?」
「会長からせっつかれたぞ、分かってるんだろ?」
(その話……わざわざ会社ですることか?)
俺は促されたソファに腰を下ろして、じとっと伯父を見る。
「前の見合いは行ったやろ?」
「でも璋が断ったからな、今度は宝生さんとこのお嬢さんとだ」
「茉白と?」
思わず眉が動く。
あいつも昔、パーティーの隅で俺と同じように、空っぽな目をしてた。
「そうだ。宝生グループとの縁談は、四ノ宮にとって最優先事項だ。お前ももう三十だ、いつまでも『鷹宮』という仮面で遊んでいるわけにはいかないだろう」
静かな声やのに、宣告みたいに重かった。
「…………それとも、誰かいるのか?」
(遊びやない。……おるよ、守りたい女が)
脳裏に浮かぶのは、当たり前みたいに笑う葵の顔。
けど、ここで名前を出すほど俺は浅くない。
四ノ宮の家が背後にある場所で、大事なもんを晒せるわけがない。
俺が黙ってると、伯父は腕を組み、深く息を吐いた。
「…………なぁ璋、会長や婆さんが心配してるぞ」
その声音には、“社長”やなく“伯父”の色も混じっていた。
「分かってる……でも俺には、守りたいもんがある」
想定外やったんやろう。
伯父の顔が、わずかに変わる。
「なるほど。では、話は以上だ。業務に戻りたまえ。鷹宮君」
それ以上は踏み込まず、社長の声音で切られた。
重い扉が閉まった瞬間、背後に渦巻く四ノ宮の圧力を振り払うみたいに歩き出す。
『あっくん、選んだなら背負いなさい』
昔、祖母に言われた言葉が頭をよぎった。
人気のない廊下で、ふと立ち止まる。
左の袖口に視線を落とす。
そこにあるのは、昨夜、葵が贈ってくれたカフスボタン。
白蝶貝が、やわらかく淡い光を返している。
「……葵」
その名を呼ぶだけで、
さっきまで胸を刺していた苛立ちが、嘘みたいに凪いでいく。
俺はそっと、カフスボタンに口づけた。
――仄暗い海の底で。
一度だけ見たはずの光を、
もう一度、見つけてしまった。
こんな俺が、触れてええ光やないと、
ほんまは最初から分かってたはずやのに。
それでも俺は、
その光に、どうしようもなく溺れていく。
カーテンの隙間から射し込む月光が、深い眠りに落ちた葵を蒼く静かに照らしている。
さっきまで俺の名前を呼んで震えていた唇は、今はもう、規則正しい寝息に変わっていた。
(……愛せることなんか、もう忘れてたと思ってたんやけどな)
指先で、汗ばんだ彼女の額をそっとよける。
触れた体温はたしかで、甘く乱れた髪からは、まだ彼女の匂いがした。
たったそれだけのことやのに、胸の奥がどうしようもなく満たされる。
苦しいくらい、甘くて、痛い。
初めてやない。
なのに、初めて以上に焦がれて、初めて以上に失いたくなくて、初めて以上に怖かった。
(三十路にもなって……名前だけで泣きそうになるとか……)
(ほんま……初恋みたいやん)
ふと、視線を落とすと、脱ぎ捨てたシャツが目に入った。
袖口には、葵が贈ってくれた白蝶貝のカフスボタン。
月光を吸い込んで、静かに、それでもたしかに光っている。
それを見ていると、嫌でも思い出す。
――誕生日。
それは、俺にとって祝われる日やのうて、見定められる日やった。
物心ついた頃から、東京のホテルの豪華な宴会場で開かれる、名刺交換のような一日
「おめでとう」と笑う大人たちの顔は、どれも同じで、どれも薄っぺらくて、どれも嘘くさかった。
子どもたちでさえ、近づいてくる理由は一つや。
俺が、四ノ宮家の御曹司やから。
俺も俺で、求められてる役割くらい、幼いなりに分かってた。
愛想よく笑って、そつなく振る舞って、期待される「四ノ宮 璋」を演じることくらい、難しくなかった。
(でも、気持ちは……とっくに死んでたな)
両親は二人とも医者で、家におる時間は少なかった。
仲が悪いわけやないし、家族の形が壊れてたわけでもない。
ただ、あの家に“温度”はあんまりなかった。
ハウスキーパーがいて、母方の祖父母がときどき様子を見にきて、生活に困ることなんか何一つなかった。
けど、満たされることとも、守られることとも、少し違った。
――ただ、四ノ宮の人間の中でも、一人だけ例外がおった。
何も持ってへん日も。
何もできへん日も。
上手く笑われへん日も。
「おかえり」って、変わらん顔で迎えてくれた。
その“たった一人”がおったから、俺は完全には腐らんで済んだんかもしれへん。
学校で友達の誕生日の話を聞くたび、羨ましかった。
プレゼントが欲しいんやない。
豪華なパーティーがしたいんやない。
ただ、“四ノ宮の誰か”やなくて、
“俺”として祝われたかった。
元カノたちも、結局そうやった。
見てたのは俺やない。
欲しかったのは「四ノ宮」という看板と、そこにぶら下がってる容姿とか肩書きとか、そういうブランド付きの男。
贈られたものは、どれも嬉しくなかった。
むしろ、繋ぎ止めるための鎖に見えた。
重なる肌も、甘い声も、「好き」も「愛してる」も。
繰り返されるほど軽くなって、だんだん意味を失って、最後にはただのBGMになった。
――そして、何より反吐が出たんは。
幼い頃、あんなに嫌いやった大人たちの笑顔を、
いつの間にか自分も鏡の前で完璧に作れるようになっていたことや。
相手が欲しがる「四ノ宮 璋」を演じて、
上辺だけの優しさを与えて、本心には誰も近づけへん。
鏡に映る自分を見るたび、冷たくて、空っぽで、無機質で。
たぶん、俺自身が一番、俺に絶望してた。
だから会社では、四ノ宮やなく鷹宮を名乗った。
母方の旧姓。
継ぐ気なんか、最初からなかった。
伯父のところには娘も、その婿もおる。俺が出る幕やないと思ってたし、何より――
四ノ宮の名を出した瞬間に変わる目が、嫌やった。
期待。打算。やっかみ。
値踏み。
勝手に背負わされる役割。
せめて会社では、
“四ノ宮”やない自分で息をしたかった。
けど、周りはそう思ってへん。
会長も、伯父も、あの人も。
みんな、俺に背負わせる気でおる。
仄暗くて、冷たい海の底を、ずっとひとりで漂ってるみたいやった。
誰にも触れさせず、誰にも期待せず。
そうしてれば、傷つかんで済むと思ってた。
――でも。
腕の中の温もりに、もう一度視線を戻す。
「……葵が思ってる以上に、俺のほうが重いで」
もし全部知ったら。
この名前の重さも、家のしがらみも、俺の執着も。
――逃げ出すかもしれへんな。
寝返りを打った葵が、無意識に俺の胸元へすり寄ってくる。
それだけで、息が詰まりそうになる。
そっと口づけようとした、そのとき。
テーブルの上のスマホが震えた。
(伯父さん……もうすぐ0時やぞ、誰が出るか)
表示を見ただけで、うんざりする。
無視したら、今度はメッセージが届いた。
(今度は……四ノ宮の本家からかよ)
喉の奥で、小さく舌打ちする。
けれど今日は、もう何も考えたくなかった。
明日の俺に押しつけて、スマホを伏せる。
無防備な重みを抱えたまま、俺はようやく認める。
自分の運命が、もう後戻りできへん場所まで染まってることを。
***
朝起きたあとの葵は、反則なくらい可愛かった。
『恥ずかしいからあっち向いて』とか『先に支度してくださいっ』とか。
俺が部屋出るまで、ずっと布団にくるまってたしな。
ひょっこり顔だけ出してたんも、なんていうかいじらしくて可愛い。
「思い出してニヤけてるとか……昨夜は随分とお楽しみで」
「当たり前やろ、反芻するくらいさせろや」
「珍しい!璋が、はぐらかさない!」
駅前で雪乃にばったり会ったんが運の尽きやった。
昨日の会議中の失態を知られてる以上、いっそ開き直った方が早い。
誕生日どうやったん、って聞かれて、今朝の可愛い葵を思い出してたところや。
「ま、でも良かったわ、ちゃんと「誕生日」になって」
雪乃にしては珍しく真面目なトーン。
大学時代からの付き合いやから、あの頃の恋愛事情も、実家のことも、こいつはそれなりに知ってる。
『璋がいつか惚気てくれる日、楽しみにしてるわ』
昔、雪乃にそう言われたことを思い出す。あの頃の雪乃に、言われたことを覚えてる。
「せやな……正直、欲しかったもん以上を葵はくれた」
そう答えると、雪乃はふっと笑って、すぐに真顔になった。
「じゃ、手放さないで目一杯大事にしなさいよ?ほーりーを泣かせたら、マジで沈めるからね」
「言われんでも、そのつもりや」
入館証を出した瞬間、俺はいつもの「鷹宮主任」の仮面を完璧に被り直した。
背筋を伸ばして、余計な感情は全部しまい込む。
それでも、袖口に忍ばせた白蝶貝の重みだけが、
昨夜の熱が夢やなかったことを教えてきた。
***
雪乃と別れてフロアに入ると、和巳が書類を持ってやってきた。
「おはよ。……璋、お前今日えらい顔が緩んでるな」
「……そうか? 別に普通だろ」
「嘘つけ。さっき雪乃から『はぐらかさない璋なんて気味が悪い、見てみて!』ってメッセが来てた」
和巳が呆れたように笑う。
こいつも雪乃と同じで、昔からの付き合いや。
「……和巳、お前こそ雪乃をどうするんだ?あいつの恋心、薄々気づいてるだろ」
「俺のことはいいんだよ、ほっとけ」
視線を逸らす和巳に、柄にもなく口角が上がる。
前やったら、他人の恋路なんかどうでもよかったのに。
「……変わったな、お前。人のことに首突っ込むタイプじゃなかっただろ」
「……そうだな。誰かさんの影響だな」
鏡の前で作った笑顔やなくて、
ただ葵を思い浮かべるだけで、自然にこぼれてしまう笑み。
そんな空気を裂いたのは、デスクの内線やった。
表示された番号を見た瞬間、血の気が引く。
「社長室」。
部下に「少し離席する」と伝えて、和巳にも声をかける。
「……和巳、悪い。行ってくる」
「社長室からか? ……気をつけろよ」
その言葉を背中で受けながら、俺はエレベーターへ向かった。
上階へ上がるわずかな時間。
鏡張りの壁に映る自分を見つめて、感情を消す。
眉間の皺をのばし、表情を整えて、「鷹宮主任」を作る。
秘書課に一礼し、重厚な扉をノックする。
「よぅ! 璋ー!」
部屋の主――四ノ宮社長は、椅子に深く腰掛けたまま、身内特有の馴れ馴れしさで俺を呼んだ。
「……社長、ここでは『鷹宮』です」
「堅いこと言うな、ここには俺とお前しかいないから」
その言葉に、俺は小さく溜息をついた。
社内では“冷徹なエリート”で通してる俺も、この男の前ではただの甥っ子や。
どうせ取り繕っても意味ない。
「…………で? 伯父さん、呼び出してまで何の用なん?」
「会長からせっつかれたぞ、分かってるんだろ?」
(その話……わざわざ会社ですることか?)
俺は促されたソファに腰を下ろして、じとっと伯父を見る。
「前の見合いは行ったやろ?」
「でも璋が断ったからな、今度は宝生さんとこのお嬢さんとだ」
「茉白と?」
思わず眉が動く。
あいつも昔、パーティーの隅で俺と同じように、空っぽな目をしてた。
「そうだ。宝生グループとの縁談は、四ノ宮にとって最優先事項だ。お前ももう三十だ、いつまでも『鷹宮』という仮面で遊んでいるわけにはいかないだろう」
静かな声やのに、宣告みたいに重かった。
「…………それとも、誰かいるのか?」
(遊びやない。……おるよ、守りたい女が)
脳裏に浮かぶのは、当たり前みたいに笑う葵の顔。
けど、ここで名前を出すほど俺は浅くない。
四ノ宮の家が背後にある場所で、大事なもんを晒せるわけがない。
俺が黙ってると、伯父は腕を組み、深く息を吐いた。
「…………なぁ璋、会長や婆さんが心配してるぞ」
その声音には、“社長”やなく“伯父”の色も混じっていた。
「分かってる……でも俺には、守りたいもんがある」
想定外やったんやろう。
伯父の顔が、わずかに変わる。
「なるほど。では、話は以上だ。業務に戻りたまえ。鷹宮君」
それ以上は踏み込まず、社長の声音で切られた。
重い扉が閉まった瞬間、背後に渦巻く四ノ宮の圧力を振り払うみたいに歩き出す。
『あっくん、選んだなら背負いなさい』
昔、祖母に言われた言葉が頭をよぎった。
人気のない廊下で、ふと立ち止まる。
左の袖口に視線を落とす。
そこにあるのは、昨夜、葵が贈ってくれたカフスボタン。
白蝶貝が、やわらかく淡い光を返している。
「……葵」
その名を呼ぶだけで、
さっきまで胸を刺していた苛立ちが、嘘みたいに凪いでいく。
俺はそっと、カフスボタンに口づけた。
――仄暗い海の底で。
一度だけ見たはずの光を、
もう一度、見つけてしまった。
こんな俺が、触れてええ光やないと、
ほんまは最初から分かってたはずやのに。
それでも俺は、
その光に、どうしようもなく溺れていく。



