鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

​何度も机上のカレンダーを見て、今日の日付をなぞる。
あたしにとって365日で一番大切な日。
 
​――本日の主役は、無事に定時で上がれるだろうか。
 
時計の針が16時を回った頃、会議室から戻ってきた雪乃先輩が、派手な音を立ててデスクに突っ伏した。
 
​「……つかれた……脳みそ溶けるわっ……」
 
「雪乃先輩、会議、お疲れ様でした」
 
「仕事の……っていうか、今日の璋は特に、極悪非道な冷徹魔王の鬼だったわ……」
 
あまりの罵詈雑言のオンパレードに、思わず苦笑してしまう。
けれど、雪乃先輩は顔を上げると、ニヤリと意味深な笑みを浮かべた。
 
​「あれはね、誕生日で浮かれまくってるのを、必死で仕事モードで隠そうとしてる反動よ」

朝の家での鷹宮先輩を思い返すが、そんな素振りは見せてない……ような。
 
「うっかり資料を逆さまに読んでたくせに、指摘したら倍返しで詰められたわ。ほんっと腹立つ!」

(そんな先輩、あたしも見たかったなぁ)
   
​冷静で完璧な鷹宮先輩がそんなミスをするほど、今日を楽しみにしてくれている。
 
​定時のチャイムと同時に、あたしは急いで帰り支度を整える。
「盛大にお祝いしてあげなさいよ~」と雪乃先輩に手を振って見送られ、エレベーターホールへ向かうと南実くんがいた。
 
​ちょうど到着したエレベーターの扉が開く。
数人の社員が乗っている中、一際目を引く背の高いシルエット。
 
(あ……!)
 
グレーのスーツを隙なく着こなした、鷹宮先輩だ。
 
​(良かった……上がれたんだ)
 
​付き合っていることを打ち明けた日。
「俺はいつでも葵ちゃんの味方だから」と笑ってくれた南実くんが、あたしの耳元でこっそり囁く。
 
「良かったね、葵ちゃん」
   
「うん、ありがとう」
 
​背中に、鋭い視線を感じる。
エレベーターから降りてきた鷹宮先輩が、あたしたちをじっと見ているのが分かった。
 
南実くんは爽やかな笑顔で、鷹宮先輩に頭を下げる。
 
「お疲れ様です、鷹宮主任。俺、先に行きますね」
 
「ああ。松原、お疲れ」
 
​低く、どこか不機嫌そうな声。
南実くんが去った後、あたしは周囲に人がいないのを確認してから、一歩だけ彼に歩み寄った。
まだここは会社。
あたしたちは「主任」と「部下」だ。
 
​「鷹宮主任、お疲れ様です。……それから、お誕生日おめでとうございます」
 
​丁寧な会釈とともに贈った、公式な「おめでとう」。
先輩はあたしを射抜くように見つめると、誰も見ていない一瞬の隙に、唇の端をわずかに上げた。
 
​「ああ。ありがとう、堀川ちゃん」
 
​会社での「堀川ちゃん」という響きに似合わない声の色。
あたしは顔が赤くなってボロを出す前に、「お先に失礼します」と慌てて背を向け歩き出した。

​ポケットの中のティントリップを握りしめ、冷たい夜風の中、あたしは家路を急いだのだった。

*** 
 
「ただいまー」

「お帰りなさい」

小走りで玄関までお出迎えにいく。
 
「葵、そのワンピース……めっちゃ似おてるやん」
          
ショッピングモールで鷹宮先輩がくれたあのワンピースに着替えていた。
唇にはもちろん、あのティントリップを添えてある。

「クリスマスより先に来ちゃいました……その……彼氏のお誕生日なので……」

自分で言っておきながら「彼氏」という響きに、むず痒さと恥ずかしさが込み上げてきた。
鷹宮先輩は小さく笑って廊下を歩く。  
 
リビングの灯りがふわりと二人を包む。
鷹宮先輩の視線が、首元で止まる。
それから、ゆっくりと下へ。

「今日がいちばん特別ですから」
 
そう言うと、先輩の目が細くなる。
あたしの唇に、はっきりと落ちる視線。
 
「……リップも、ちゃんとつけてるやん」
 
「はい」
 
小さく頷いた瞬間。
一歩、距離が縮まる。
壁も何もないはずなのに、 逃げ場がなくなる。
 
「葵」
 
名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
 
「似合ってるやん……めちゃくちゃ」
 
さっきまでの会社の主任じゃない。
完全に、恋人としての甘く射貫く瞳。
 
「……あの、鷹宮先輩。先にごはんにしましょ?冷めちゃいます」
 
先輩はふっと息を吐いて、距離を一度だけ離した。
 
「せやな、飯食おか。…………で、最後は葵な」
 
そう言って、あたしの腰に軽く触れる。
ほんの一瞬。
でも、触れた場所が熱くなる。
 
「覚悟しぃや」
 
耳元で囁かれて。
あたしの理性が、少しだけ揺らいだ。

とりあえず今は誕生日ディナーが最優先。
あたしは理性をフル稼働して、キッチンに戻る。

『レストランよりも葵の手料理が食いたい』

『え……いいんですか?……リクエストはありますか?』

『葵の誕生日に食べてた家のメニューがええ』

そう言った鷹宮先輩の表情は真剣で。
あたしが誕生日に作ってもらったメニューをテーブルに並べていく。

「へぇー……ハンバーグかぁ」

「はい、母が作るハンバーグが大好きなんです」

チーズインハンバーグにニンジンのグラッセ、コーンスープ。
子どもの頃から、あたしが誕生日に必ずお願いするメニューだ。
あと、この前鷹宮先輩が好きと言ってくれたアンチョビ入りのポテトサラダ。

「赤ワインを買ってみました、正直詳しくないんですが……」

雪乃先輩がオススメしてくれた銘柄で、冷やしてあった冷蔵庫から取り出す。
 
正直、ワインを飲まないので、開けるのに四苦八苦していたら鷹宮先輩がやってきた。

「俺がサーブするし、座り」

鷹宮先輩がワイングラスに注いでいく。
そのカッコよくて流暢な動きに、つい見惚れてしまう。

「……見すぎ、照れるやろ」

差し出されたグラスを受け取り、「乾杯」とグラスを軽く合わせた。

ハンバーグにナイフを入れた瞬間、肉汁がじゅわっと溢れる。
先輩の目が、ほんの少し丸くなる。
 
「……うま」
 
一言、それだけなのに。
あたしの胸の奥が、嬉しくてふやける。
 
「鷹宮先輩のお誕生日なのに、あたしのごはんで良かったんですか?」
 
「アホか」
 
即答。
フォークを置いて、あたしを見る。
 
「家で、好きな彼女が一生懸命作ってくれて、それを一緒に食う……」
 
「これ以上の贅沢あるわけないやろ」
 
少し照れたみたいに視線を落として。
  
――ああ。
この人の誕生日を祝えてる。
ちゃんと、隣で。
 
その事実が、じわじわと染みてくる。
 
「……葵」
 
「はい?」
 
「来年も、これ作ってな……再来年もずっと、俺の隣で」
 
​冗談めかさない、重くて熱い言葉。
瞳は、未来のその先まであたしを捕らえて離さないと言っているようで。
 
​「……はい、もちろんです」
 
​溶けそうな熱に浮かされながら、あたしは自分の運命が彼に染まっていくのを、心地よく感じていた。  

「それに……こういう家庭的なん、ほんまは憧れてたし」

あたしには聞こえなかった鷹宮先輩の小さな囁き。   
でも、目が少しだけ潤んだ気がした。

*** 

食後のコーヒーとホールケーキをテーブルに用意した。
3本のローソクに灯りを点して、あたしはお馴染みの誕生日ソングを歌う。
 
「なんや……三十路のオッサンやのに、めっちゃ照れる」 

「ふふっ、これから毎年ありますよ?」

あたしはケーキを切り分けて、誕生日プレート付きを本日の主役の前に置く。
鷹宮先輩はしげしげと見つめていた。

「ええな、こういうの……あったかい」

イチゴの生クリームケーキを食べながら、柔らかな笑みを浮かべている。

(…………あぁ、もうその顔。好きすぎてズルい) 

何回みても飽きることのない、大好きな人の笑顔。
あたしはもっと見たくて、鷹宮先輩の隣に移動した。
そして用意していた紙袋から取り出す。
 
「……あの、これ。良かったら、使ってください」
 
中に入っているのは白蝶貝のネクタイピンとカフス。 
シルバーの台座に、白蝶貝が凛とした光を放っている。
 
「白蝶貝? 」
 
「癒しと守護の意味があるんです。……あたしの誕生石でもあるから」
 
先輩の手が止まる。
 
「……そばにいます、みたいな意味も込めて……」
 
沈黙のあと、手首を引かれた。
 
「白蝶貝には「絆」や「慈愛」って意味もある」

先輩はネクタイの端を指で摘み、あたしに差し出した。
 
「……つけて」  

あたしは震える手で、ネイビーのネクタイに、袖口に、白蝶貝をそれぞれ留めた。
シルバーの輝きが、彼の隙のないスーツ姿に、柔らかい彩りを添える。
 
「……似合います。すごく、かっこいい」
  
その瞬間、腰を引き寄せられた。
ぴくんと無意識に体が跳ねた。 
  
「……もう一つ誕生日プレゼントええ?」

「えっ……なん……ですか?」

うなじをなぞる熱に、思考がほどけていく。

​「名前呼んで……」  

耳元で解ける艶やかな熱が、あたしの理性がじりじりと削っていく。
 
大きな腕は、優しい体温とは裏腹に。
あたしを閉じ込める抗えない檻となって、彼の胸板に押し付けられた。 
 
「……あきらさん」

鷹宮先輩の体が微かに、けれど激しく震えた。 

「もう一回」

「……あきらさん……あきらさん……」
 
熱と息が絡まって、うまく声が出ない。
もどかしくて、じわりと目尻に涙が浮かぶ。
 
強引に顔を上げさせられ、視線がぶつかる。
漆黒の瞳に揺らめく光は、理性の鎖を外しかけた男のそれだった。
  
「……そんな顔して、そんな声で呼ばれたら、もう止まれるわけないやろ」
 
長く綺麗な指先が、あたしの唇をなぞる。
コーラルレッドが、彼の指先を、彼の熱を、赤く染めていく。
 
「俺が選んだ色……めちゃくちゃ、綺麗や」
 
鼻先が触れ、シトラスとワインの香りが混ざる。
それだけで、心まで酔う。
 
「……覚悟、したんやろ」

低く落ちる声に、頷くしかできない。

指先が触れて、体温が重なる。
名前を呼ばれるたびに、吐息がふるえる。

逃げ場のない距離が、心地よくて。

――その夜。
 
甘く揺蕩う意識の中で、愛しい人のぬくもりにとけていく。
 
あたしは、初めて、
彼の腕の中で、ほどけていった。

***

目が覚めたとき、隣に彼がいた。

腕の中に閉じ込められて、
逃げる理由なんて、どこにもなくて。

「……おはよ、葵」

低く掠れた声に、胸がぎゅっとなる。

(……もう、戻れない)

でもそれが、怖いんじゃなくて――

ただ、嬉しかった。