鷹宮先輩、ズルいです 〜泣き顔を拾われたら、極甘上司に溺愛されました〜

大きな紙袋をいくつも抱えて、ようやく辿り着いた玄関。
 
(……息、しにくい)
 
胸の奥が、ずっと熱くて苦しい。
 
​リビングの明かりとエアコンを点けた鷹宮先輩の背中を見つめながら、あたしは無意識に胸元を押さえた。
 
耳の奥に残っているのは――
 
『俺の連れやけど』
 
低く、あの距離で落とされた声。
部屋はまだ冷えているのに、体の内側だけが熱を持っている。
 
​「……葵、何ぼーっとしてんねん。はよ入れ。風邪ひくぞ」
 
​振り返った鷹宮先輩は、もういつもの顔に戻っていた。
さっきまでの距離なんて、なかったみたいに。
 
​「……あ、はい」
 
​慌てて靴を脱いで、荷物を部屋へと運ぶ。
どれも鷹宮先輩が選んだものだと思うと、喉の奥が熱くなる。

その中に混ざっている、透明なケース。
コーラルレッドのティントリップ。

(……隠せるわけないよ、こんなの)

リビングから聞こえてくる、コーヒーメーカーがコトコトと鳴る音。

――いつも通りのふりを、する。
 
深呼吸して、あたしはリビングのドアを開けた。 

***
    
「はぁぁー…肩凝るわぁ…」

雪乃先輩とあたしは休憩室で、軽く肩を回す。

年末進行で、どの部署も慌ただしい。
あの日から、鷹宮先輩も残業続きで、ゆっくり顔を合わせる時間も減っていた。

(……少しだけ、ほっとしてる)
 
そう思ってしまう自分に、少しだけ苦笑する。
そのとき、視界の端に、見慣れたスーツが入った。 

(…………あ)

鷹宮先輩。
――その隣に、知らない女性。
 
何かを話しながら、少しだけ柔らかく笑っている。
その顔を、初めて見た。
胸の奥が、ちり、と焼ける。 
 
(……なんで)

視線がぶつかりそうになって、思わず逸らす。
向こうも、何もなかったみたいに、こちらを見ない。  

(……なんで、あの人にそんな顔するんですか)
 
嫌いじゃない。
ただ――
 
(取られそう)
 
その感覚だけが、静かに広がる。
 
「あれ?葵ちゃん、リップの色変えた?」
 
「……うん」
 
同じく休憩中の南実くんに気づかれて、少しだけ視線を落とす。
 
「似合ってる」
 
その一言で、心臓が少し跳ねる。
 
(……違う)

(あの人が、選んでくれた)
 
気づけば、ポケットの中で指先がそれに触れていた。  

「自分では選ばない色なんだけど……似合うからって…」
 
言わなくてもよかったはず。
でも気付いたら、言葉にしていた。
 
「ふふっ……そいつはほーりーの事、よく見てるわねぇ」
 
雪乃先輩は誰のことか、察しがついたみたいで。
少し離れた場所で立っている鷹宮先輩を見た。
 
「そろそろ戻りましょうか」

「そうですね、じゃ南実くんまたね」

雪乃先輩と並んで、休憩室の出口に向かう。
もう一度だけ視線を向けたけど、今度は、やっぱり合わない。
 
「鷹宮主任、お疲れ様です」

「八千草……お疲れ様。……堀川もお疲れ様」

少し睨むような鷹宮先輩とは対照で、満面の笑みの雪乃先輩。 
そのまま、近づいて鷹宮先輩の肩に手を置く。

「璋――――――」

名前から先は、聞き取れなかった。
ただ、鷹宮先輩にしては珍しい、少し狼狽した表情。 

(何言われたんだろう……?)

「じゃ、お疲れ様でーす♪」

気になりつつも、雪乃先輩に背中を押されて休憩室を後にする。

「さっき、鷹宮主任に何話したんですか?」

「璋の理性を崩壊させる一言♪」 

雪乃先輩はすごく楽しそうな口調で「楽しみだわ~♪」と歩くのだった。
 
***      
  
「ごちそうさまでした」  

今日も遅く帰ってきた鷹宮先輩は、いつも通り食器をシンクへ運ぶ。

「先にフロ入ってええか?」
 
「はい、どうぞ」
 
バスルームのドアが閉まる音を聞いて、あたしは小さく息を吐いた。
 
(……普通にして)
 
リビングに戻り、片付けを終える。
何事もない夜になるはずだった。
 
なのに。
 
頭の中から離れないのは、あの女性の横顔。
 
(……なに、これ)
 
風呂から上がり、洗面台の前に立つ。
無意識に、ポーチを開けていた。
 
(……ちょっとだけ)
 
寝る前なのに。
わかっているのに、手が止まらない。
唇にそっと乗せる。
指でなじませた瞬間――
 
(あ……)
 
鏡の中の自分が、少しだけ違って見えた。
彼に選ばれた色をまとったあたし。
さっきまでの自分より、少しだけ強くて、少しだけ欲張りな表情で。 
 
そのとき。
 
「葵ー、出た?」
 
びくっと肩が跳ねる。
 
「はいっ」
 
拭く間もなく、リビングへ戻ると、
ソファに座る眼鏡姿の鷹宮先輩と目が合った。

(……あたしが選んだやつ)
 
​「ん」
 
​促されるまま、先輩の足の間に背を向けて座る。
ゴォォ、という低い音と共に、大きな手が髪を掬い上げた。
  
​(……近い)
  
指先が、いつもより丁寧で、いつもより熱い。​
何度も同じ場所を、なぞるように触れてくる。 
 
(どうしよう)
 
好きだと気づいたせいで、
全部が、意味を持ってしまう。
 
「……そのリップ」
 
風音の隙間を縫うような、低い声。
 
「……付けたんや」
 
心臓が、跳ねる。
 
「……はい」
  
ドライヤーの音が、一瞬だけ揺らいだ。
 
「……朝は付けてへんかったのに、昼、会社で付けてたやろ」
 
抑揚のない、でも、やけに重たい一言。 
低く、地を這うような声。
 
振り向こうとするも、「終わってへんから」と静かに止められる。
 
「松原にあれこれ言われて……その顔で、俺の前おったやろ」

(……え)
   
そのまま、鷹宮先輩がゆっくりとあたしの首筋に顔を寄せる。
髪の毛が、触れそうで触れないギリギリのライン。

「……お前、俺を試してんのか」

熱を帯びた声に、逃げ場がない。
ドライヤーの音よりも、もっと大きい心臓の音。

「鷹宮先輩こそ……」

思わず言い返す。 
 
「一緒にいましたよね……その女の人と……」

一瞬、間が空いたものの、遮られる。
  
「俺の話はええ……松原はなんて言うてた?」

良くない!と言う気を無くさせるほどの圧を、指先から感じる。

「……『似合ってる』『かわいい』って」

少しだけ強く、言い返す。 

「あいつ……ほんま……見せたくなかったわ」

低く掠れた声のあと、鷹宮先輩は深く息を吐いた。
 
「これ以上、触れたら……あかん気ぃする」

ドライヤーの音が止まり、静寂がリビングに満ちた。
けれど、言葉とは裏腹に、髪を梳く先輩の手は、逃がさないと言わんばかりに噛みつく。

「……結構、ギリかもな……」 
 
すぐ後ろ。
鷹宮先輩の深く息を吸う音。
一段と低く切実な声が、限界を告げるみたいに鼓膜を揺らす。

「俺、部屋行くわ」

軽く一撫でした後、突き放すように、でも名残惜しそうに梳いた指が離れる。

「おやすみ」     

「おやすみなさい……」
 
残された温度だけが、残る。

もう閉じたはずのドアを、あたしはしばらく見つめていた。

(……あ) 

ただ甘やかされるだけの関係じゃない。  
もう、“それだけ”じゃ足りない。
 
今までの恋とは、違う。
自覚した瞬間から、もう戻れない。
 
(……だめ)
 
先輩に、もっと触れてほしい。
誰のものでもない。
 
――アナタのカノジョになりたい。
――あたしだけのものになってほしい。 
 
​言葉にならない想いが、
熱を帯びたまま、唇に残る。
 
コーラルレッドのまま、
静かに、揺れていた。