煙草の匂いが消えた朝に

孤独の解除

大学二年の冬だった。失恋は、きっかけにすぎなかったのかもしれない。もともと無理をしていた。いい子で、明るくて、ちゃんとしている自分を。ある日の講義中。ノートを取っていたはずなのに、気づくとチャイムが鳴っていた。黒板の文字が、読めない。音が遠い。自分だけ、水の中に沈んだみたいだった。
「私、いま、ここにいる?」
自分の手をつねっても、感覚が薄い。立ち上がろうとして、椅子にぶつかった。でも痛みが遅れてくる。それが最初の解離だった。やがて頻度は増えた。電車の中で、景色が急に平面になる。人の顔が、のっぺりとした仮面みたいに見える。自分の声が、録音みたいに聞こえる。数時間の記憶が抜けることもあった。怖かった。でも一番怖かったのは、「怖い」という感情すら、遠くなることだった。現実が壊れそうになると、
代わりに“清潔さ”にしがみついた。手を洗う。机を拭く。揃える。整える。世界が曖昧でも、消毒液の匂いだけは、はっきりしていた。だから真子は大学を辞めた。
「体調不良」という言葉で片付けた。本当のことは、誰にも言わなかった。龍太郎は統合失調症。龍太郎の最初は、二十代の終わりだった。仕事は続いていた。人並みに笑い、飲み、働いていた。ある夜、帰り道で声がした。
「お前は失敗する」
振り向いても、誰もいない。疲れているんだと思った。けれど声は、翌日も来た。仕事中、背後から。
布団の中で、耳元で。やがて増えた。一つではなく、いくつも。悪口。命令。嘲笑。眠れなくなった。食べられなくなった。同僚の視線が、監視に思えた。
電柱のカメラが、自分を追っている気がした。世界が敵になる。それでも、病院には行かなかった。
「男のくせに」
「気のせいだ」
そう言い聞かせた。限界が来たのは、駅のホームだった。線路の向こうから、はっきりと聞こえた。「飛べ」
足がすくんだ。そのとき初めて、自分は壊れているのかもしれないと思った。診断名は、統合失調症。そのままホームに飛び込んだ。幸い電車は来なく命拾いした。薬で声は小さくなった。でも、完全には消えない。働いては悪化しが続いた。真子は“現実が遠くなる”。龍太郎は“現実が歪む”。壊れ方は違う。でもどちらも、世界と自分の距離がうまく測れない。だから二人は、互いの弱さに気づく。そして初めて、「俺もだよ」
という言葉が、ただの慰めではなくなる。


「龍太郎さん、何してるんです。何回も手を洗って」
水音がやけに大きい。龍太郎は、はっとして蛇口を止めた。指先が赤い。泡はもうとっくに落ちているのに、まだ擦っていた。
「……あれ」
自分でも気づかなかった。真子はクスッと笑う。
「まるで私みたい」
その言い方は、からかいでも心配でもない。
ただ、少し嬉しそうだった。龍太郎は照れたように手を振る。
「いや、なんか、落ちてない気がしてな」
「何が?」
真子は首をかしげる。龍太郎は答えられない。汚れ? 不安? 声の残り香?わからない。ただ、“残っている感じ”がしたのだ。真子は隣に立つ。蛇口をひねる。
今度は彼女が洗う。一回。二回。三回。四回目にいきかけたところで、
龍太郎がそっと言う。
「もう、きれいだ」
真子の手が止まる。その声は強くない。でも、不思議と届く。真子はしばらく水を見つめてから、静かに蛇口を閉めた。
「……止まりました」
少し驚いたように言う。龍太郎は胸の奥がざわつくのを感じる。代わりに、自分の手がむずむずする。
また洗いたい衝動が来る。真子が気づく。
「今度は、私が言いますね」
彼女は龍太郎の手首を軽く掴む。強くない。
逃げられるくらいの力。
「もう、きれいです」
その瞬間、衝動がすっと引いた。完全ではない。でも、半分消えた。龍太郎はゆっくり息を吐く。
「なんだこれ」
真子も小さく笑う。
「共有、してますね」
沈黙。洗面所の蛍光灯が白い。龍太郎はぽつりと言う。
「俺の声、お前に行ってないか」
真子は少し考える。
「怖い声は、ないです」
そして続ける。
「でも、“大丈夫”っていうのは、増えました」
龍太郎の胸が、少しだけ熱くなる。彼の中の“飛べ”が、いつの間にか小さくなっていることに気づく。真子が言う。
「龍太郎さん」
「ん?」
「もし、私が解離しても」
「うん」
「戻してくださいね」
龍太郎は迷わない。
「ああ」
今度は彼が笑う。
「俺が飛びそうになったら」真子はすぐに言う。
「戻れ、って言います」
二人の間に、小さな約束ができる。病は消えない。衝動もなくならない。でも。一人で抱えるものではなくなった。洗面所の鏡に映る二人は、少しだけ似ていた。孤独は、形を失い始めている。