出逢い
白鳥真子15歳
橘龍太郎46歳
放課後。真子は屋上にいた。立入禁止の札が揺れている。フェンス越しに見える夕焼けは、やけに赤い。
「ここ、好きなの?」
背後から声がした。振り向くと、新聞配達のバイト帰りらしいおじさんが立っていた。46歳くらい。少しだけ、くたびれた笑い方をする人だった。
「借金あっても、空はきれいだなって思って」彼は、冗談みたいに言った。真子は、初めて自然に笑った。その笑顔は、壊れかけた世界の中で、
たった一つ、嘘じゃなかった。この出逢いが、
再生の始まりになるのか、それとも、さらに深く沈むのか。
平成16年。
物語は、まだ始まったばかりだった。ここは日本のどこか、賑わう商店街の街中にある深澤精神病院。「おじさん。並木高校の屋上にいたおじさんでしょ」外来の窓口、龍太郎と真子が初めて出逢ったのは。真子は、解離性障害。龍太郎は統合失調症でこの精神病院に通院していた。二人が口を開いたのはこれだけこの日から15年が過ぎた。平成31年2月1日。
「障害年金でローンの支払い」またも藤田智治75歳の怒鳴り声が患者の橘龍太郎に飛んでいく。龍太郎はパチンコの借金が100万あった。その資金は15年間に耕したものだった。
「先生には感謝してる。なにせ精神障害二級の認定が降りた」15年目にやっと事後重症で障害年金の診断書を書いてくれたのだ。この15年間、社会復帰を目指したが、なかなか思うような仕事に就けなかったのが幸した。そして藤田主治医は龍太郎に精神科デイケアに通院するように指示を出した。デイケア、大人の幼稚園という人もいる。その印象は、見学をした初日にぶっ飛んだ。
「宜しく」と声をかけてきたのは、白鳥真子29歳。龍太郎はおったまげたと同時に、どうしてこんな場所に美人で可愛い娘がいるのか、てっきり職員と勘違いしたのであった。
真子は解離性障害と、潔癖症の癖があった。消毒液のポンプを二回。椅子に座る前に、必ずハンカチで拭く。スリッパは左右を揃えないと落ち着かない。初めてデイケアで隣に座った日、彼女は突然言った。
「私、おかしいでしょ」
冗談でも、卑屈でもない。事実を述べるような声だった。龍太郎は少し考えてから答えた。
「俺もだよ」
それだけだった。だが、彼は内心で驚いていた。自分の病気を、自分の言葉で言える。それは、簡単なようで難しい。龍太郎は長い間、統合失調症という言葉から逃げていた。真子は逃げていない。壊れやすいのに、まっすぐだった。今日は昼からバドミントンのプログラム。体育館に響くシャトルの乾いた音。白いラインがやけに眩しい。
「運動は、嫌いじゃないんです」
真子はラケットを握りながら言った。ただし、ネットに触れたらすぐに手を消毒する。サーブは意外とうまかった。パチン、と軽快な音。シャトルはきれいにコートの隅へ落ちる。
「すごいな」
龍太郎が言うと、
真子は少し照れた。
「集中してると、余計なこと考えなくて済むから」
その横顔に、十五年前の夕焼けが一瞬重なる。だが龍太郎は気づかない。あの屋上の少女だとは、思いもしない。休憩時間。真子は手を何度も洗っていた。蛇口を閉めて、また確認する。それでも戻ってくる。逃げない。潔癖の衝動からも、解離の波からも。苦にしていないわけではない。抱えたまま、前に出る。龍太郎は思った。強いな。そして、少しだけ悔しかった。自分は何度、病気を言い訳にしただろう。
「橘さんは、どうしてここに?」
不意に聞かれる。
「社会に戻る練習らしい」
「戻りたいんですか?」
問いはまっすぐだ。龍太郎は少し考えて、言う。
「……煙草の匂いがしない朝を、ちゃんと吸い込みたい」
真子はその言葉を、静かに受け取った。その瞬間。二人のあいだに、小さな風が通った。恋ではない。まだ。でも、誰かと一緒に回復していく”そんな予感だけが、確かにあった。
バドミントンのあと、体育館の隅の長椅子に二人は座っていた。窓の外は、少し曇り空。午後の光がやわらかい。真子はラケットを膝に置いたまま、言った。
「……働きたいんです」
独り言のような声だった。龍太郎はすぐには返さない。真子は続ける。
「普通に、朝起きて、電車に乗って、仕事して……」
「それだけのことが、すごく遠い」
指先が少し震えている。潔癖の癖で、無意識に爪をこすっている。
「発作が出たら迷惑かけるし」
「手を洗いすぎるし」
「集中してると急に現実感がなくなるし」
一息、置く。
「私、やっぱりおかしいですよね」
龍太郎は首を振った。
「おかしいって思ってるやつは、大体まともだ」
真子は少し笑う。でも目は笑っていない。
「橘さんは、働きたいですか?」
その問いは、鋭かった。龍太郎はしばらく黙る。
「怖い」
正直に言った。
「また壊れるのが怖い」
「働いて、無理して、幻聴がひどくなって」
「借金増やして」
空気が静まる。
「でもな」
龍太郎は窓の外を見た。
「やらないと、一生“病人”のままだ」
真子の視線が上がる。
「できるかどうかじゃなくて、やるかどうかだと思う」
「小さいのでいいんじゃないか」
「週一でも、二時間でも」
真子は何も言わない。けれど、その言葉は届いていた。帰り際。真子はぽつりと呟いた。
「怖いけど、やってみたい」
その横顔は、十五年前の少女とは違う。
壊れやすいけれど、逃げない顔。
龍太郎は思う。強いな。そして同時に、胸の奥が少し温かくなる。これは恋か?まだ違う。でも確かに、
二人は“同じ方向”を向き始めていた。
白鳥真子15歳
橘龍太郎46歳
放課後。真子は屋上にいた。立入禁止の札が揺れている。フェンス越しに見える夕焼けは、やけに赤い。
「ここ、好きなの?」
背後から声がした。振り向くと、新聞配達のバイト帰りらしいおじさんが立っていた。46歳くらい。少しだけ、くたびれた笑い方をする人だった。
「借金あっても、空はきれいだなって思って」彼は、冗談みたいに言った。真子は、初めて自然に笑った。その笑顔は、壊れかけた世界の中で、
たった一つ、嘘じゃなかった。この出逢いが、
再生の始まりになるのか、それとも、さらに深く沈むのか。
平成16年。
物語は、まだ始まったばかりだった。ここは日本のどこか、賑わう商店街の街中にある深澤精神病院。「おじさん。並木高校の屋上にいたおじさんでしょ」外来の窓口、龍太郎と真子が初めて出逢ったのは。真子は、解離性障害。龍太郎は統合失調症でこの精神病院に通院していた。二人が口を開いたのはこれだけこの日から15年が過ぎた。平成31年2月1日。
「障害年金でローンの支払い」またも藤田智治75歳の怒鳴り声が患者の橘龍太郎に飛んでいく。龍太郎はパチンコの借金が100万あった。その資金は15年間に耕したものだった。
「先生には感謝してる。なにせ精神障害二級の認定が降りた」15年目にやっと事後重症で障害年金の診断書を書いてくれたのだ。この15年間、社会復帰を目指したが、なかなか思うような仕事に就けなかったのが幸した。そして藤田主治医は龍太郎に精神科デイケアに通院するように指示を出した。デイケア、大人の幼稚園という人もいる。その印象は、見学をした初日にぶっ飛んだ。
「宜しく」と声をかけてきたのは、白鳥真子29歳。龍太郎はおったまげたと同時に、どうしてこんな場所に美人で可愛い娘がいるのか、てっきり職員と勘違いしたのであった。
真子は解離性障害と、潔癖症の癖があった。消毒液のポンプを二回。椅子に座る前に、必ずハンカチで拭く。スリッパは左右を揃えないと落ち着かない。初めてデイケアで隣に座った日、彼女は突然言った。
「私、おかしいでしょ」
冗談でも、卑屈でもない。事実を述べるような声だった。龍太郎は少し考えてから答えた。
「俺もだよ」
それだけだった。だが、彼は内心で驚いていた。自分の病気を、自分の言葉で言える。それは、簡単なようで難しい。龍太郎は長い間、統合失調症という言葉から逃げていた。真子は逃げていない。壊れやすいのに、まっすぐだった。今日は昼からバドミントンのプログラム。体育館に響くシャトルの乾いた音。白いラインがやけに眩しい。
「運動は、嫌いじゃないんです」
真子はラケットを握りながら言った。ただし、ネットに触れたらすぐに手を消毒する。サーブは意外とうまかった。パチン、と軽快な音。シャトルはきれいにコートの隅へ落ちる。
「すごいな」
龍太郎が言うと、
真子は少し照れた。
「集中してると、余計なこと考えなくて済むから」
その横顔に、十五年前の夕焼けが一瞬重なる。だが龍太郎は気づかない。あの屋上の少女だとは、思いもしない。休憩時間。真子は手を何度も洗っていた。蛇口を閉めて、また確認する。それでも戻ってくる。逃げない。潔癖の衝動からも、解離の波からも。苦にしていないわけではない。抱えたまま、前に出る。龍太郎は思った。強いな。そして、少しだけ悔しかった。自分は何度、病気を言い訳にしただろう。
「橘さんは、どうしてここに?」
不意に聞かれる。
「社会に戻る練習らしい」
「戻りたいんですか?」
問いはまっすぐだ。龍太郎は少し考えて、言う。
「……煙草の匂いがしない朝を、ちゃんと吸い込みたい」
真子はその言葉を、静かに受け取った。その瞬間。二人のあいだに、小さな風が通った。恋ではない。まだ。でも、誰かと一緒に回復していく”そんな予感だけが、確かにあった。
バドミントンのあと、体育館の隅の長椅子に二人は座っていた。窓の外は、少し曇り空。午後の光がやわらかい。真子はラケットを膝に置いたまま、言った。
「……働きたいんです」
独り言のような声だった。龍太郎はすぐには返さない。真子は続ける。
「普通に、朝起きて、電車に乗って、仕事して……」
「それだけのことが、すごく遠い」
指先が少し震えている。潔癖の癖で、無意識に爪をこすっている。
「発作が出たら迷惑かけるし」
「手を洗いすぎるし」
「集中してると急に現実感がなくなるし」
一息、置く。
「私、やっぱりおかしいですよね」
龍太郎は首を振った。
「おかしいって思ってるやつは、大体まともだ」
真子は少し笑う。でも目は笑っていない。
「橘さんは、働きたいですか?」
その問いは、鋭かった。龍太郎はしばらく黙る。
「怖い」
正直に言った。
「また壊れるのが怖い」
「働いて、無理して、幻聴がひどくなって」
「借金増やして」
空気が静まる。
「でもな」
龍太郎は窓の外を見た。
「やらないと、一生“病人”のままだ」
真子の視線が上がる。
「できるかどうかじゃなくて、やるかどうかだと思う」
「小さいのでいいんじゃないか」
「週一でも、二時間でも」
真子は何も言わない。けれど、その言葉は届いていた。帰り際。真子はぽつりと呟いた。
「怖いけど、やってみたい」
その横顔は、十五年前の少女とは違う。
壊れやすいけれど、逃げない顔。
龍太郎は思う。強いな。そして同時に、胸の奥が少し温かくなる。これは恋か?まだ違う。でも確かに、
二人は“同じ方向”を向き始めていた。



