恋は手のひらの上で

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一人暮らしの部屋に帰ると、急に静かになる。


ヒールを脱いで、バッグを下ろしてジャケットをハンガーにかける。
肩に残っていた腕の重さが、ようやくここにきて消えた。

ソファに腰を下ろし、スマホをテーブルに置く。


息つく間もなく、画面がふっと光る。

『高橋:今日はお疲れ様』
『高橋:今度ちゃんと飯行こ。ふたりで』

通知だけが並ぶ。
開かない。

指を伸ばしかけて、やめる。


その代わりに思い出すのは、ネクタイを緩める指。
結び目を中央に戻す、正確な動き。
垣間見えた、こぼれた素の笑顔。

『……よかった』

あの時たしかに低く落ちた声。
あれは安堵だったのか、 それとも信頼だったのか。

本当のところは分からない。
分からないけれど、胸の奥に残っている。

三千円と言えたこと。
怖かったけれど、自分で決めたこと。
その感覚が、じわりと広がっている。


スマートフォンがもう一度震える。
『高橋:既読つかないんだけど?笑
まさか、もう寝た?』

小さく息を吐いて、画面を裏返す。


─────ごめん。今は余裕、ない。

今日は、誰にも答えなくていい。


ソファにもたれて、真っ白な天井を見上げる。
触れられていないのに、 指先の記憶だけが残っている。

整えられた結び目。
緩んだままの結び目。

どちらが正しいとかじゃない。

事実として、今日、私は三千円を選んだ。
その選択だけは、ちゃんと自分のものだ。


目を閉じる。
違和感はまだ、小さい。

けれどきっと、ここから何かが動き出す。