恋は手のひらの上で

閉ざされた空間で、私はポツリとつぶやいた。

「…まだ、怖いです。三千円」

階数が一つずつ減っていくのを見上げていたら、彼はわずかに笑い、そして今度は鏡越しに私を見た。

「怖くない判断は、たぶん成長しません」

さらりと言うけれど、ちゃんと柔らかい響き。

ネクタイを緩めたあとの喉元が、妙に目に残っていた。
仕事終わりに近い椎名さんの存在が、鏡に映るよりも近く感じた。

「大丈夫。今日でまだ一段と強くなりましたよ。西野さん、もともと強いひとでしょう?」


“強いひと”という表現が、あまりにも嬉しかった。

前回の顔合わせで、森下くんになんの気なしに言われた“サンドバッグみたい”よりも、「ちゃんと大人になれている」と言われているような安心感。

「強いひとって…言われると“ちゃんとしてる”って思えて、嬉しいです」

思わず笑うと、彼は一瞬驚いたように息を飲み、すぐに笑い返してくれた。


エレベーターが一階に到着した。
あっという間のような、惜しいような。

ロビーの人工的な光が流れ込む。
空気が一気に広がり、密室が終わりを告げる。

でも、ネクタイを緩める指と、“強いひと”という言葉は、胸に残ったままだった。