言えない。言わない。

ホールは思っていたより広かった。

観客のざわめきが天井に吸い込まれていく中
舞台の中央には
黒く光るピアノが一台だけ置かれている。

玲央と雫は、少し前の席に並んで座っていた。

視線を上げれば
舞台の細かい動きまでよく見える位置だった。

今日は、月乃の発表会だ。


雫「よく見えるね」


玲央は軽くうなずきながら
舞台袖の方へ目を向ける。

次の瞬間
白いワンピースの影が静かに現れた。

月乃だった。

背筋は伸びているのに
歩幅がほんの少し小さい。

その違和感に気づいて、玲央は少し笑った。


玲央「ふっ、緊張してるな」


雫「当たり前でしょ」


軽く返しながらも、雫は視線を外さない。

月乃が椅子に座り、客席へ目を向けた瞬間
その動きが一度だけ止まった。

一瞬だけ、目が泳ぐ。

けれどすぐに、探していたものを見つける。

玲央と雫。

玲央はわざと腕を組んだまま視線を返し
雫は小さく手を振る。

そのやりとりの中で
月乃の肩が少し下がるのが見えた。

最初の一音が鳴る。

澄んだ音がホールいっぱいに広がり
ざわめきがすっと消える。

玲央は自然と体を前に傾け
雫は静かに目を閉じた。

音は少し揺れていたが
それも最初だけだった。

二曲目に入るころには、迷いは消え
まっすぐに響いている。

舞台の上で、月乃は前を見て弾いていた。

それでも、ときどきほんの一瞬だけ
視線が客席に落ちる。

探しているみたいに。

そのたびに、玲央は気づかないふりで
同じ姿勢を崩さず
雫はわずかに呼吸を合わせる。

見えなくても
そこにいることを伝えるみたいに。

最後の音が消える。

一拍の静寂のあと、拍手が広がった。

月乃は立ち上がり、ゆっくり頭を下げる。

舞台袖へ戻る直前
もう一度だけ客席へ目を向けた。

目が合う。

玲央は小さく親指を立て
雫はその隣でやわらかく笑う。

その表情を確認してから
月乃は静かに舞台の奥へ消えていった。