【完結】見返りは、当然求めますわ

 sideヴィンセント


 デスクで書類に目を通していると、勢いよく扉が開かれる音が響いた。慌ただしい足音とともに飛び込んできたのはフリードだ。



「た、たたた大変だ、ヴィンセント!」


 フリードの顔は蒼白で、額にはうっすら汗がにじんでいる。何事だ?



「騒がしいぞ、フリード。お前も仕事をしろ」


 書類から視線を上げることなく答えた。疲れがたまっているせいか、苛立ちすら感じる。



「婚約解消の事実確認の連絡待ちで、気が気じゃなく……。こっちは、仕事が進まないというのに」

「なっ! ……これを聞いたら、仕事どころじゃなくなるぞ。シャルロットとエルミーヌが、この国に向かって、いや、出発したのは数日前だから、もう、この国にいる!」



 フリードの言葉は早口で、まるで思考が追いついていないかのようだ。……待て、今なんて言った?


「は? この国に? 誰がいるって?」


 顔を上げ、冷静を装ってみたが、声が震える。一体どういうことだ。



 フリードは肩で息をしながらも言葉を続ける。



「だから! 二人が旅行のため、この国に向かったと、さっき連絡があったんだ! でも、タイムラグを考えたら、……もう到着しているはずだ!」


「いや、そんな馬鹿な」


 冷ややかに首を振った。


「私に、何の連絡もないぞ。そんなことあるか?」


 フリードはしばし沈黙し、それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。



「……嫌われてるんじゃないか?」


「どっちにだ……。返答次第では、許さんぞ」



 フリードは肩をすくめ、軽く笑いながら答えた。

「何言ってるんだ。どっちだって嫌だろう? とにかく、安全面を考えたら、君のタウンハウスが宿泊地のはずだ。なぜ知らない?」



「っ、帰っていないからな!!!」


 くそっ!



「な、なんで怒るんだよ」


 フリードは困惑した顔で言い返す。

「君が頻繁に帰っていれば、もっと早く知ることができていた情報だし、私は、シャルロットに早く会えていたってことだろ?」



 ぐうの音も出ない……。深くため息をつき、机に肘をついた。




「……邸からも連絡がないが……その情報は、本当なのか?」



「私の家の影は優秀だぞ? はは、ヴィセント、君、邸の皆からも、嫌われてるんじゃないか」


『も』ってなんだ!! フリードの軽口に、思わず目を細めた。

 確かに、邸には、しばらく顔を出していないが……くっ、そんなはずは……



「とにかく、分かったからには、こうしてはいられない」

 迷いを振り払うように立ち上がり、ドアの方へと足を向ける。



「今すぐ帰る! お前も当然ついてくるだろう?」


「愚問だな」


 フリードは肩をすくめながらも、同じく立ち上がった。



 *****



 婚約解消の事情は分からないが、気の強い我が妹なら、きっと大丈夫だろう。


 何せ、もともと年上の彼のことを手のかかる弟のように接していたくらいだ。いや、最近はむしろ嫌っていたかもしれない。
 それでも、妹は公爵家の令嬢としての立場や、婚約者としての責務を誰よりも理解していた。それを無視するような軽薄な人間ではない。



 フリードには言わずにいるが、妹は初めて彼に会ったその瞬間からフリードに恋をしていた。


 公爵家の令嬢として、婚約者がいる身として、礼節を守り適度な距離を保っていた。それでも、不意に見せる妹の切ない横顔や、遠くから彼を見つめる視線を見れば、嫌でもその想いが伝わってきた。


 一方のフリードはといえば――妹への恋心をもっと隠すべきだと思う……

 まるで全身でそれを表現しているような振る舞いをする。こいつは本当に侯爵家の嫡男か? と疑わずにはいられないほど、見ているこちらがハラハラするほどだった。妹は気付かないふりをしているようだったが。



 私は、2人のその関係を壊す勇気はなかった。いや、壊す資格など自分にはないと分かっていたからだ。



 それよりも心配なのは、エルミーヌだ。

 優しく、可憐で、芯の強い彼女。妹と同じく非常に優秀で、王太子の婚約者として、共に肩を並べて励んできたのを知っている。
 そんな彼女が、あれほど努力していたのに、婚約を解消されるなど……どういう理由なのか考えるだけで、胸がざわつく。もし王太子の浮気が原因だとしたらどうしてやろうかと、腹の底から煮えくり返るような怒りがこみ上げてくる。


 エルミーヌは大丈夫だろうか……

 心配が頭の中を堂々巡りする。彼女の繊細な微笑みを思い浮かべるたびに、不安が膨れ上がる。




 小さい頃から、エルミーヌの笑顔に惹かれていた。妹とは対照的に、彼女はどこか感情を隠そうとする癖があり、その隙間から見える笑顔がとても愛おしかった。


 最初はただの親しみだった。けれど、いつしかそれは恋に変わり、やがて愛に変わった。どの瞬間に変化したのかは分からない。ただ確かなのは、彼女を思うたび、胸が締め付けられるような苦しさと温かな喜びが交錯することだった。

 努力を重ね、ますます美しくなっていくエルミーヌをそばで見守りたいという気持ちと、彼女を手に入れることなど許されないという現実。


 その間で揺れ動く日々は、耐えがたいものだった。


「もし自分が公爵家の跡継ぎでなければ――」
「もし彼女が王太子の婚約者でなければ――」


 そんな無意味な仮定を、幾度も頭の中で巡らせた。何度も彼女を奪って逃げてしまおうかと本気で考えたことさえある。しかし、それは叶うはずもない幻想だった。残された家族、特に同じ婚約者である妹のことを思えば……



 だから、逃げた。この国に留学という名目で。
 それでも、エルミーヌと妹が公爵家に帰ってくる時には、どんな理由をつけても帰国していた。


 この国で卒業後、お互い家を継ぐまでとフリードと外交官として働き始めたが、公爵家の跡継ぎとして、いつかは戻る日が来ることを分かっていた。

 父との約束――妹とエルミーヌの結婚式が終わったら、必ず帰国する。そして、その時には父が選んだ婚約者を受け入れるという条件付きだった。


 それが、自分にとっての運命だと思っていた。
 しかし――奇跡が起きた!!

 エルミーヌが王家から解き放たれたのだ。
 この瞬間を待ち望んでいたのだろうか?  そんなことを期待することすら許されないと思っていた。


 それでも、彼女が自由になったのなら、今度こそ彼女の心を手に入れたい――そう強く願わずにはいられなかった。