第1部 夜明けが世界を染めるころ、悪意の見える伯爵令嬢は王子の執着から逃れられない

10年前――
ユウリ、13歳。

私の祖父は、蒼紋ラピスラズリ伯爵家に長年先代に仕えてきた、名の知れたベテラン執事だった。
その影響もあり、私は物心つく頃から、執事としての身のこなしや礼儀作法、教養を叩き込まれて育った。
10歳になる頃には、簡単な業務であれば任されるほどにはなっていたと思う。

元々、私は器用な方だった。
大抵のことは一度見れば覚え、何度も失敗することは少ない。
主人を護る立場として、剣術、馬術、護身術も学ばされていたが、それらも苦ではなかった。

――そんな頃のことだ。

祖父から、蒼紋ラピスラズリ伯爵家の子どもたちの執事をしてほしい、という話が来たと告げられた。

「ユウリ。お前は賢く、器用な子だ。立派な執事になれるだろう」
一拍置いて、祖父は低い声で続けた。
「……だがな、主人を違えるなよ」

その言葉の意味が、当時の私にはよく分からなかった。
主人を違える、とはどういうことなのだろう。

蒼紋ラピスラズリ伯爵家には、当主の息子であるマルク様がいらっしゃる。
誰もが次期当主と考えており、私も当然、その方に仕えるものだと思っていた。

――だからこそ。
祖父の言葉が、妙に胸に引っかかったのを、今でもはっきりと覚えている。

まるで、仕えるべき相手は別にいると、暗に告げられているかのようだったからだ。


⸻

「よく来たな。君の祖父には、先代の頃から世話になっていてな。
君のことも、とても有能だと聞いている」

凄みのある低い声、伯爵家当主のアドルフ様だ。
堂々とした立ち姿と、こちらを射抜くような視線に、思わず身がすくみそうになる。
だが、私はそれを必死に押さえ込んだ。

背筋を伸ばし、呼吸を整え、真正面からその視線を受け止める。
ここで目を逸らせば、それだけで見限られると直感したからだ。

「ありがとうございます。祖父からも、あなた様のお話は伺っております。
私はユウリと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」

執事として、過不足のない丁寧な礼。
声が震えていないことを、自分でも確認する。

男は一瞬、何も言わずに私を見つめた。
沈黙が、重くのしかかる。

「――執事として、一番大事なことは何だと思う?」

試されている。
そう感じたが、取り繕った答えを返すつもりはなかった。
私は、少しだけ考え、そして自分の言葉で答える。

「誠実で、正直であることかと存じます」

その言葉を口にした瞬間、
男の口元が、ほんのわずかに動いた。