僅かな距離

教室に入った瞬間、一斉に視線が集まった。
ざわついていた空気が、少しだけ静まる。

――緊張してるな。
俺も、生徒も。

黒板の前に立って、一度、深く息を吸う。

「おはよう」

返ってくる声は、まばらだった。

「今日からこのクラスの担任になりました。
体育を担当します、月城翔平です」

名前を書きながら、
後ろの様子をそれとなく見る。

笑っている子。
無関心そうな子。
値踏みするような目。

そして――
一人だけ、机に視線を落としたままの生徒。

「28歳です。
みんなより、ちょっとだけ人生長く生きてます」

くすっと、笑いが起きる。
よし、掴みは悪くない。

「体育教師って聞くと、
“厳しそう”とか“声でかそう”って思うかもしれないけど」

少し間を置く。

「安心して。
声はでかいけど、理不尽なことはしません」

また、小さな笑い。

「運動が得意な人も、苦手な人もいると思う」

そこで、自然と視線があの席に向いた。
まだ、顔を上げない。

「でもな。ここは“できるかどうか”より、
“ちゃんとそこにいるか”を大事にしたい」

教室が、少し静かになる。

「失敗してもいい。遅れてもいい。
嫌なことがあったら、無理に笑わなくていい」

言葉を選びながら、はっきり言う。

「俺は、誰か一人が置いていかれるのが嫌いです」

何人かが、顔を上げた。

「だから、困ったことがあったら、遠慮なく言ってください」

一拍置いて、付け加える。

「言えないなら、言わなくてもいい。
その代わり、俺はちゃんと見ます」

その瞬間、ふと、目が合った。
一瞬だけ。

すぐに逸らされたけど、
確かに――
何かを抱えている目だった。

「一年間、よろしく」

そう言って、軽く頭を下げる。

拍手は、まばら。でもいい。

俺は、あの一瞬の視線が、
なぜか頭から離れなかった。

――このクラス、
思ってるより、静かに歪んでるかもしれない。

そんな予感だけが、胸に残っていた。