その名前を、呼べたなら

窓口のカウンター越しに座る人々は、みんな同じような顔をしている。
 疲れていて、少し焦っていて、でも何を聞けばいいのかわからない──そんな顔だ。

 佐倉恒一(さくらこういち)は市役所福祉課の窓口で、今日も淡々と仕事をこなしていた。三十五歳。勤続十二年。クレームを受けたことは一度もない。感謝されることも、ほとんどない。それでいい、と恒一は思っている。

「では、こちらの書類に必要事項を記入していただいて、来週また窓口にお持ちください」

 恒一は丁寧に説明し、パンフレットを二部手渡す。相手は六十代くらいの男性で、少しほっとした表情で頷いた。

「ありがとうございます」

「いえ」

 恒一は軽く会釈をして、次の番号札のボタンを押す。電光掲示板に『24番』の数字が点灯した。

 午後四時半。閉庁まであと三十分。
 待合の椅子にはまだ数人が座っている。恒一は時計を一瞥し、隣の同僚に視線を向けた。彼女はすでに最後の相談者を案内している。このペースなら定時には終わるだろう。

 恒一は小さく息をついて、カウンターの書類を整理し始めた。

 そのとき、入口のドアが開いた。

 小さな人影。

 恒一は顔を上げた。

 少女だった。

 小学校の中学年くらいだろうか。紺色のランドセルを背負い、少し大きめの黄色いジャンパーを着ている。髪は肩の少し下まで伸びていて、前髪がぱっつんと切り揃えられていた。

 少女は入口で立ち止まり、きょろきょろと周囲を見回している。誰かを探しているのかと思ったが、視線はすぐに恒一のカウンターに向けられた。

 恒一は一瞬、判断に迷った。

 子どもだけで窓口に来ることは、珍しい。ゼロではないが、たいていは親が外で待っているか、学校の宿題で調べ物に来ただけか、そのどちらかだ。

 少女はゆっくりとカウンターに近づいてきた。待合の椅子には座らず、まっすぐ恒一の前まで来て立ち止まる。

 恒一は、できるだけ柔らかい声で言った。

「こんにちは。どうしたの?」

 少女は恒一を見上げた。黒い瞳。少し緊張しているようだったが、泣いているわけではない。

「あの」

 小さな声。

「お母さんのこと、聞きたいです」
 
 恒一は眉をわずかに動かした。

「お母さん?」

「はい」

 少女は頷いた。ランドセルを下ろし、床に置く。そして両手でカウンターの縁をつかむようにして、もう一度言った。

「お母さんが、最近あまり話さなくなったんです」

 恒一は静かに椅子を引いて座り直した。少女の目線に少しでも近づくために、わずかに前かがみになる。

「それは……体調が悪いとか?」

「わかりません。でも、ずっと疲れてるみたいで」

 少女の声には、不安が滲んでいた。けれど泣き出しそうな様子はなく、むしろ冷静に、自分の状況を説明しようとしているように見えた。

 恒一は少しの間、何も言わずに少女を見つめた。

 この子は、何を求めているんだろう。
 支援制度の案内?病院の紹介? それとも、ただ誰かに話を聞いてほしいだけなのか。

「お名前、教えてくれる?」

 恒一は静かに尋ねた。

「山本ひより」

「山本さん。ひよりちゃんだね」

 恒一はメモを取りながら続けた。

「今、お母さんとふたりで暮らしてるの?」

「はい」

「お父さんは?」

「いません」

 ひよりは淡々と答えた。恒一は頷き、ペンを置いた。

「そっか。じゃあ、ひよりちゃんがお母さんのこと、心配してるんだね」

「はい」

 ひよりはまっすぐに恒一を見つめている。その視線には、子どもらしい無防備さと同時に、どこか大人びた観察眼のようなものがあった。

 恒一は、慎重に言葉を選んだ。

「お母さんが話さなくなったって、どれくらい前から?」

「……二週間くらい、かな」

「それまでは、ちゃんと話してた?」

「うん。でも最近は、『うん』とか『あとでね』とか、短いのばっかり」

 恒一は小さく息をついた。

 疲労、ストレス、あるいは──何か別の理由。

 それを判断するのは恒一の仕事ではない。けれど、この子を適切な支援につなぐことは、できる。

「ひよりちゃん、お母さんは病院に行ってる?」

「行ってます。でも、何の病院かは教えてくれない」
 
恒一は眉を寄せた。

「そうなんだ」

「わたし、ついていきたいって言ったけど、ダメって」

 ひよりの声が、少しだけ小さくなった。

「お母さん、わたしに言いたくないことがあるんだと思います」

 恒一は、返す言葉を失いかけた。

 九歳の子どもが、こんなふうに状況を整理できるものだろうか。
 
いや──できる子は、できる。

 恒一は何度か、そういう子どもたちを見てきた。親の異変を誰よりも早く察知し、誰にも言えずに抱え込む子ども。大人が思っているよりずっと、子どもは敏感だ。

 恒一は静かに言った。

「ひよりちゃんは、すごく冷静だね」

「……冷静じゃないと、わかんなくなるから」

 ひよりはそう言って、少しだけ視線を逸らした。

 恒一は胸の奥に、小さな痛みを覚えた。
 それは同情ではない。もっと別の、名前のつけられない感情だった。

「わかった。じゃあ、ひよりちゃんとお母さんが使える制度があるか、ちょっと調べてみるね」

 恒一はパソコンに向かい、いくつかのキーワードを打ち込んだ。ひとり親世帯、医療費助成、生活支援。画面には複数の項目が表示される。

「お母さんの名前は?」

山本美和(やまもとみわ)

 恒一はメモに書き加えた。

「年齢は?」

「……三十四」

 恒一の手が、一瞬止まった。

 自分より一つ下。

 そして、この子を育てている。

 恒一は何も言わず、入力を続けた。

「お母さんが病院に通ってるなら、医療ソーシャルワーカーっていう人に相談できるかもしれない。病院の中で、生活のこととか、制度のこととか、一緒に考えてくれる人がいるんだ」

「そういう人、いるんですか」

「うん。病院の相談室っていうところにいることが多いよ」

 恒一はパンフレットを一枚取り出し、ひよりに手渡した。

「これ、お母さんに見せてみて。もし困ったことがあったら、また来てもいいし、電話してもいいから」

 ひよりはパンフレットを受け取り、じっと見つめた。

「……ありがとうございます」
 
 小さな声。けれど、ちゃんと届いた。

 恒一は頷いた。

「お母さん、きっと大丈夫だよ」

 それは、言ってはいけない言葉かもしれなかった。

 根拠のない励ましは、時に残酷だ。

 けれど、ひよりは少しだけ表情を緩めた。

「はい」

 そして、ランドセルを背負い直す。

 恒一は立ち上がり、カウンターから出て、ひよりを入口まで見送った。

 ひよりは振り返り、もう一度頭を下げた。

「ありがとうございました」

「気をつけて帰ってね」

 ひよりは頷いて、ドアを押して外に出た。

 恒一はその背中を見送り、ゆっくりとカウンターに戻った。

 時計は午後四時五十分を指している。

 もう誰も待っていなかった。

 恒一は椅子に座り、メモを見つめた。

 山本ひより・山本美和

 名前だけが、静かに残っていた。

 閉庁後、恒一はいつものように書類を整理し、パソコンをシャットダウンした。同僚たちが「お疲れさまです」と声をかけながら帰っていく。恒一も「お疲れさまでした」と返し、最後にロッカーへ向かった。

 上着を取り出し、腕を通す。鏡に映る自分の顔は、いつもと変わらない。疲れてもいないし、何か特別なことがあったわけでもない。

 ただ、少女の言葉だけが、妙に耳に残っていた。

 『大人って、名前呼ぶの遅いよね』

 違う。それは、ひよりが言った言葉じゃない。

 恒一は首を振った。

 何を考えているんだ。

 彼は市役所を出て、いつもの道を歩き始めた。夕暮れの空は薄く青く、街灯がひとつずつ灯り始めている。

 恒一のアパートまでは徒歩十五分。途中にコンビニが一軒、本屋が一軒、小さな公園がひとつ。それ以外には何もない、静かな道だ。

 恒一は歩きながら、今日のことを思い返していた。

 ひよりの表情。

 母親の名前を口にしたときの、少しだけ寂しそうな顔。

 そして──
 
『お母さん、わたしに言いたくないことがあるんだと思います』

 子どもが、そんなことを言うべきじゃない。

 けれど、言わざるを得ない状況が、確かにあるのだ。

 恒一は立ち止まった。

 目の前に公園がある。ブランコが二つ、滑り台がひとつ。誰もいない。

 恒一はベンチに腰を下ろし、空を見上げた。

 母のことを、思い出していた。

 十年前。

 病院のベッドで横たわる母。

 恒一は仕事で遠方に出張していて、最後の瞬間に立ち会えなかった。

 母が残した留守電は、まだスマホの中に保存されている。

 けれど、恒一は一度も再生していない。

 聞けば、母の声が蘇る。

 それが怖かった。

 名前を呼ばれることも、呼び返すことも、恒一にとっては重すぎる行為だった。

 だから恒一は、誰に対しても「正しい距離」を保つようにしている。

 近づきすぎず、離れすぎず。

 感情を挟まず、ただ制度を案内する。

 それが、恒一にとっての優しさだった。

 恒一は立ち上がり、再び歩き始めた。

 アパートに着き、鍵を開けて部屋に入る。

 電気をつけ、コートを脱ぎ、冷蔵庫を開ける。

 何もない。

 恒一はため息をついて、もう一度外に出た。

 コンビニで弁当を買い、アパートに戻る。

 テレビをつけ、ニュースを流しながら食事をする。

 味はしない。

 いつものことだ。

 恒一は食べ終わった容器をゴミ箱に捨て、風呂に入り、歯を磨いた。
 
 ベッドに横になる。

 天井を見つめる。

 母の声が、聞こえる気がした。
 
 『恒一』

 呼ばれている。

 けれど、恒一は目を閉じた。

 そして、眠りに落ちた。