名前を呼ぶまで、春は来ない

 教室の窓から見える桜は、もう八分咲きだった。

 入学式から一年が経ち、二度目の春を迎えた高校の校舎は、新しいクラス発表に湧いていた。廊下を行き交う声、下駄箱の前で友達と抱き合う女子たち、スマホで新しいクラスメイトの名前を確認し合う男子グループ。春は、いつだってこんなふうに騒がしい。

 私、桜井澪(さくらいみお)は、その喧騒から少し離れた場所で、掲示板に貼られたクラス分けの紙を眺めていた。

 2年C組。

 名前を探す。五十音順に並んだリストの中に、私の名前はちゃんとあった。当たり前のことなのに、なぜかほっとする。存在を確認されたような、でも同時に、また一年間「ここにいなければならない」というプレッシャーを感じたような。

「澪ちゃん、同じクラスだね!」

 背後から明るい声がかかった。振り向くと、見覚えのある顔。去年同じクラスだった子だ。名前は……確か、高橋(たかはし)さん。いや、橋本(はしもと)さんだったかもしれない。
「あ、うん。よろしくね」
 
 笑顔を作る。角度も、目の開き具合も、完璧に計算された笑顔。一年間磨き上げてきた、誰も傷つけず、誰にも踏み込まれない笑顔。

「また一年よろしく! 席近かったらいいね」

 彼女はそう言って、友達の輪の中へ戻っていった。私は小さく手を振り、そっと掲示板から離れる。

 廊下を歩きながら、新しい教室へ向かう。2年C組は三階、一番奥の教室だ。階段を上りながら、私は心の中で今年の目標を反芻する。

 ──誰とも深く関わらない。
 ──波風を立てない。
 ──いてもいなくても変わらない存在でいる。

 それが、私の安全な居場所の作り方だった。



 教室に入ると、すでに何人かの生徒が集まっていた。窓際の席を取り合う声、去年のクラスの話で盛り上がるグループ、担任の先生を予想して笑い合う友達同士。

 私は教室の後ろ、一番目立たない場所に荷物を置いた。席はまだ自由だから、ここなら誰にも邪魔されない。窓から外を見れば、桜の花びらが風に舞っている。

「おはよう」

 隣の席に、誰かが座った。

 顔を上げると、男子生徒だった。背が高く、黒縁の眼鏡をかけている。穏やかな雰囲気で、教室の喧騒に馴染んでいるようで、少しだけ距離を置いているような、そんな印象を受けた。

「おはよう」

 私は短く返事をして、また窓の外へ視線を戻す。会話を続けるつもりはない、という無言のサイン。たいていの人は、これで察してくれる。

 でも、彼は何も言わずに、ただ静かに自分の荷物を整理し始めた。話しかけてくるわけでもなく、無理に会話を続けようとするわけでもなく、ただそこにいる。
 その存在の仕方が、少しだけ珍しかった。



 ホームルームが始まり、担任の先生が教室に入ってきた。四十代くらいの男性教師で、体育教師らしい筋肉質な体つきをしている。

「おはよう。俺が今年お前たちの担任になる、田中だ」

 黒板に大きく名前を書く。生徒たちから拍手が起こり、教室が少しだけ明るくなった。
「今日は席替えと、委員決めをやる。その後、部活動の勧誘があるから、新しく部活に入りたいやつは残っておけ」

 田中先生の説明は簡潔で、無駄がなかった。私はノートにペンを走らせながら、心の中で今年の計画を立てる。

 委員はやらない。目立つし、責任が重い。部活も入らない。人間関係が濃くなりすぎる。

 ただ、普通に、静かに、この一年を過ごす。それだけ。



 席替えは、くじ引きだった。
 私が引いたのは、窓際から二番目、真ん中あたりの席。悪くない。目立ちすぎず、でも隅すぎない。ちょうどいい。

 新しい席に座ると、隣の席には朝、同じ場所に座っていた男子生徒がいた。彼もくじ運が似ていたらしい。

「また隣だね」
 彼がそう言って、小さく笑った。
「……うん」
 私は短く返事をして、筆箱を机の上に並べる。彼はそれ以上何も言わず、また静かに自分の荷物を整理し始めた。
 名前は、まだ知らない。知らなくていい。
 名前を知ることは、関係の始まりだから。



 昼休み。
 私は一人で購買へ向かい、パンとお茶を買った。教室に戻ると、クラスメイトたちはグループごとに固まって昼食を食べている。去年からの友達同士、新しくできた友達、部活の仲間。

 私の席の周りには、誰もいなかった。
 それでいい。これが、私の居場所だから。
 窓際の席に座り、パンを齧りながら外を眺める。桜の木の下で、一年生らしいグループが写真を撮っていた。笑顔で肩を組み、ピースサインをして、青春を謳歌している。

 私にも、そんな時期があったのだろうか。
 中学生の頃。まだ、人と関わることが怖くなかった頃。
 でも、それはもう遠い昔のことだ。



「桜井さん」
 名前を呼ばれて、顔を上げる。
 隣の席の男子生徒が、こちらを見ていた。
「……何?」
「これ、配布物。さっき先生が持ってきてた」
 彼は、プリントの束を差し出した。
「ありがとう」
 受け取ると、彼は小さく頷いて、また自分の弁当に視線を戻した。

 プリントを見る。部活動の勧誘チラシだった。写真部、演劇部、軽音部、美術部……色とりどりのチラシが、まるで春を切り取ったように並んでいる。
 私は、それをそのまま机の引き出しにしまった。
 興味はない。
 少なくとも、今は。



 放課後。
 ホームルームが終わり、教室がざわつき始める。部活の勧誘に向かう生徒、友達と遊びに行く生徒、塾へ急ぐ生徒。それぞれの放課後が、ここから始まる。

 私は荷物をまとめて、静かに教室を出ようとした。
「ちょっと待って!」
 廊下で、声をかけられた。
 振り向くと、見覚えのない女子生徒が立っていた。短い髪に、大きな目。笑顔が眩しい。
「2年C組の子だよね? 私、写真部の副部長やってる三島っていうの」
「……写真部?」
「そう! 今日、勧誘やってるんだけど、ちょっと見学に来ない? 写真好きな子、募集してるんだ」

 三島さんと名乗った彼女は、チラシを差し出してきた。さっき教室で見たのと同じ、写真部のチラシ。
「興味ないです」
 私ははっきりと断った。
「えー、そう言わずに! ちょっとだけでいいから。今日は新入部員向けに作品展示もしてるし、お茶も出すよ」
「本当に、大丈夫です」
「一回見るだけ! 勧誘はしないから」

 彼女の押しの強さに、私は少し困った。こういうタイプは、はっきり断らないとずっとついてくる。
「あの、私──」
「三島先輩、無理に誘わない方がいいですよ」
 後ろから、声がした。
 振り向くと、隣の席だった男子生徒が立っていた。
「朝倉くん! あんたも写真部でしょ、一緒に勧誘してよ」
「俺は雑用係なんで。それより、嫌がってる人を無理に誘うのは、部のイメージに関わりますよ」

 朝倉、と呼ばれた彼は、穏やかな口調でそう言った。三島さんは少し不満そうな顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。
「わかったわかった。じゃあ、もし気が変わったら、いつでも来てね!」
 そう言って、彼女は廊下の向こうへ走っていった。


「ごめん、先輩がちょっと熱血でさ」
 朝倉くんは、苦笑しながらそう言った。
「……別に」
 私は短く答えて、また歩き出す。
「桜井さん」
 また名前を呼ばれた。
 振り向くと、彼はこちらを真っ直ぐ見ていた。
「無理に誘うつもりはないけど、もし写真に興味があったら、いつでも見学に来て。部室は三階の美術室の隣」
「……ありがとう」
 私はそう言って、彼に背を向けた。
 廊下を歩きながら、心の中で小さく呟く。
 ──名前を呼ばないでほしい。
 名前を呼ばれるたび、私は少しだけ怖くなる。
 誰かの人生に、踏み込まれそうで。



 下駄箱で靴を履き替えていると、また声がかけられた。
「澪ちゃん、帰り一緒にどう?」
 朝、掲示板の前で話しかけてきた女子だった。
「ごめん、今日は用事があるから」
「そっか。じゃあまた明日ね!」
 彼女は笑顔で手を振り、友達の輪の中へ戻っていった。
 用事なんて、ない。
 ただ、一人で帰りたかっただけ。



 校門を出て、桜並木の道を歩く。
 花びらが、風に舞って足元に落ちてくる。ピンク色の絨毯の上を歩きながら、私は今日一日を振り返る。

 新しいクラス。新しい席。新しい担任。
 でも、何も変わらない。

 私は今年も、誰ともちゃんと関わらずに、この一年を終える。

 そう決めていた。

 ──名前を呼ばれることも、誰かの名前を呼ぶことも、きっともうない。

 それが、私の選んだ春の過ごし方だった。