アンケート ― 選ばないという選択 ―

 純との待ち合わせは、駅前の喫茶店だった。



 美佳が扉を開けると、奥の席に見慣れた後ろ姿があった。窓に面したカウンター席ではなく、壁際の二人がけのテーブル。朝倉らしい選択だと思った。視界が広く、出入り口が把握できる場所。何かを「観察する」ことに慣れた人間の、無意識の習慣。



「待たせた?」



「いや」



 純は顔を上げて、美佳を一瞥した。特に表情は変わらない。ただ、一瞬だけ目が止まった気がした。



 美佳は向かいに座り、メニューを開いた。ホットコーヒーかアイスコーヒーか。窓の外の空はまだ曇っていて、気温は微妙なところだった。



 また迷ってる。



 美佳は素直にホットコーヒーを頼んだ。店員が去ってから、朝倉がテーブルの上に薄いノートを置いた。



「翔から連絡があった」



 東郷翔(とうごうしょう)の名前が出た瞬間、美佳は少し背筋が伸びた。翔はいつも情報を持っている。そして、必要なときにしか話さない。



「何か分かったの?」



「LAPISのサーバーは止まっている。それは間違いない」朝倉はノートを開かずに言った。「でも、完全に消えたわけじゃないらしい」



 美佳はコーヒーが来るのを待ちながら、その言葉を頭の中で転がした。完全に消えたわけじゃない。



「どういうこと?」



「LAPISのシステムに接続したことのある個人端末──スマートフォンやタブレットに、選択のログが残っている。アンケートに答えた記録。どの問いを開いたか、何秒考えたか、どちらを選んだか」



 コーヒーが運ばれてきた。美佳はカップを両手で包んだが、口はつけなかった。



「消せないの?」



「消せない。サーバー側からの削除命令がかからない限り、端末の深層に書き込まれたデータは残り続ける」朝倉は静かに続けた。「使えもしない。サーバーが止まっている以上、そのデータを読み取るシステムがない。ただ、そこにある」



 ただ、そこにある。



 美佳は自分のスマートフォンのことを考えた。ポケットの中に、今もある。毎日使っている、見慣れた画面。その奥底に、あのアンケートの痕跡が残っている。どの問いを開いたか。何秒考えたか。どちらを選んだか。



「……気持ち悪いね」



「そうだな」純は同意した。「翔はそれを調べていた。なぜ削除されないのか、技術的な理由を」



「分かったの?」



「設計上の問題じゃないらしい。意図的に残されている可能性がある、と翔は言っていた」



 美佳は顔を上げた。朝倉の表情は変わらない。ただ、言葉を選んでいる、という気配があった。



「意図的に、って」



「まだ仮説の段階だ。翔も確証があるわけじゃない」朝倉はそこで少し間を置いた。「ただ、消せないデータが全員の端末に残っているという事実は変わらない。LAPISが完全に終わったと思っていたなら、それは違うかもしれない」



 美佳はコーヒーを一口飲んだ。苦かった。



 窓の外を路線バスが通り過ぎていく。乗客の顔が一瞬だけ見えて、すぐに消えた。あの人たちの端末にも、ログが残っているのだろうか。アンケートに答えたことのある人間全員の、選択の痕跡が。



「翔は今、どこにいるの?」



「藍都にいる。ただ、しばらく直接連絡は取らない方がいいと言っていた」



「なんで?」



「調べていることが、誰かに気づかれたくないらしい」



 美佳は何も言わなかった。翔が慎重に動いているなら、それは軽い話ではない。翔はいつも一歩引いたところにいる。それでも動いているということは──何かが、まだ動いているということだ。



「純は」美佳はゆっくり聞いた。「どう思う?」



「何を」



「LAPISが終わったかどうか」



 朝倉はしばらく黙った。窓の外に目をやって、また美佳に視線を戻す。



「終わったとは思っていない」



 きっぱりとした言い方ではなかった。でも、迷っている様子もなかった。ただ、それが自分の判断だ、という静かな確信があった。



「わたしも」美佳は小さく言った。「なんとなく、そう思ってた」



 口に出したのは初めてだった。アンケートは終わった、と自分に言い聞かせながら、どこかでずっと引っかかっていたもの。服を選ぶときの迷い。目玉焼きの黄身の位置。銀杏の葉を避ける足。



 それがLAPISの残滓なのか、自分自身の変化なのか、美佳にはまだわからない。でも、どちらにしても──何かが終わっていないのは確かだった。



「とりあえず、今日伝えたかったのはそれだ」純はノートを閉じた。「翔から続報が来たら、また連絡する」



「うん」美佳は頷いた。「ありがとう」



 純は小さく首を振って、コーヒーを飲んだ。



 二人はしばらく黙って、それぞれのカップを傾けた。話すことが尽きたわけじゃない。ただ、言葉にしなくていいことがある、という感覚が二人の間にあった。



 美佳は窓の外を見た。曇り空は相変わらずで、晴れる気配がない。



 スマートフォンがポケットの中にある。その奥底に、消えないログが眠っている。どの問いを開いたか。何秒考えたか。どちらを選んだか。



 美佳はそれを取り出さなかった。



 今は、ただコーヒーを飲み終えることだけを考えた。それだけでいい、と思いながら──それだけを選ぶことが、こんなにも難しくなっていることに、美佳はまだ慣れていなかった。