夏休みの間、天文科学館には「自由研究のために来ました」という子どもたちが大勢やって来る。灯はその子たちにパンフレットを渡し、展示を説明し、「この本も参考になるよ」と図書コーナーへ案内した。
メモ帳を持ってきてせっせと書き取る子もいれば、写真ばかり撮ってあまり読まない子もいる。連れてこられた様子で終始退屈そうな子もいた。
本当に、いろんな子がいる。
九月になると、今度は顔つきが変わる。
「発表が終わった」という安堵がにじむ少し軽くなった顔の子もいれば、
まだどこか納得していない表情の子もいる。
だいたい、その二種類だ。
今日来たのは、後者だった。男の子二人組。たぶん小学六年生くらい。一人は背が高くて、一人は少し小さかった。二人とも玄関を入ってきた時、どことなく不満そうな顔をしていた。
「先生に、もっと調べてこいって言われて」
背の高い子がやや投げやり気味に言う。
「どんなテーマで調べたんですか?」
「日本標準時。明石が基準になってるやつ」
「ああ、ここのテーマですね。発表したのに、もっと調べてこいって?」
「なんで明石なんかが基準なのかが、わかってないって」
「なんか、って言いましたか?」
灯は微笑む。
男の子はちょっとばつが悪そうな顔をした。
「言ってない。先生が言った」
「先生が?」
「なんで明石みたいな小さい町が、って」
「そうですか」
灯は少しだけ、ムッとした。でもそれは顔に出さなかった。「明石みたいな」という言い方が、どこか引っかかった。十年以上ここに住んで、今はここで働いている灯にとって、明石は「みたいな」がつく場所ではない。でも先生の言い方を男の子に言っても仕方なかった。
「じゃあ、一緒に考えましょうか」
灯は二人を、一階の「子午線」展示コーナーに連れていった。
東経135度の線が日本列島を縦に走っている大きなパネルがある。明石を通っているその線は、北は北海道から南は九州まで、いくつかの都市を通っている。灯はこのパネルが好きだった。シンプルな地図に一本の線だけ。でもその線に、たくさんの話が詰まっている。
「この線のこと、知ってますか」
「子午線」と小さい方の男の子が言った。勉強してきた声だった。
「そうです。日本標準時子午線。これが基準になってます。なんで135度が選ばれたか、調べた?」
「グリニッジ天文台からちょうど九時間の場所だから」
背の高い方が答えた。
「正解。じゃあ、なんでその線が明石を通ってるか」
「……それが、よくわからなくて」
「先生に聞いたら?」
「先生は教えてくれなかった。自分で調べてこいって」
「そうか。先生、いいこと言った」
男の子はちょっと不満そうな顔をした。先生の味方をされるとは思っていなかったのだろう。
灯は、ちょっと考えた。
説明の仕方がいくつかある。歴史的な話、地理的な話、政治的な話。全部正確だけど、小学生に全部言っても仕方ない。それより、何が一番「へえ」と思えるか。灯はいつも、そこから考える。正確さより先に、「これを聞いたら面白いと思うかな」を考える。それが正しいかどうか、まだ自信はないけれど。
「ちょっと来て」
灯は二人を、建物の外に連れ出した。天文科学館の前の広場には、地面に子午線が引いてある。東経135度のラインが、石畳に刻まれている。観光客はよく写真を撮っていく。でも灯は、写真より「立ってみる」ことが大事だと思っている。
「この線の上に立ってみて」
二人が線の上に立った。背の高い子は少し照れたような顔をした。小さい子は、真剣な顔で線を踏んだ。
「今、二人は東経135度の上にいます。この瞬間、日本のどこにいても、時計の時刻はここの太陽の位置を基準にしてる。つまり日本中の人が、今この場所の空を見て時間を決めてる」
「日本中が?」と小さいほうが聞いた。
「日本中が。北海道の人も、沖縄の人も、東京の人も、みんな明石の空を見て時間を決めてる。なんか、すごくない?」
二人はしばらく黙った。
背の高い子が空を見上げた。小さい子は足元の線を見た。
「先生が言った『なんで明石みたいな』って話だけど」と灯は続けた。「なんで明石が選ばれたかより、明石が選ばれてどうなったか、の話をするといいかもしれない。意味ができた場所の話」
「意味ができた?」
「ここに線が引かれる前は、明石はただの町でした。でも135度を選んで、その線が明石を通ったから、ここに意味ができた。時間の基準になった。それって、最初から特別な場所だったんじゃなくて、選ばれることで特別になったってこと」
「その話、発表で使っていいですか」と小さい方が聞いた。
「もちろん。でも、自分の言葉で言い直して。私の言い方は、あなたの発表には合わないかもしれないから」
「自分の言葉?」
「さっき線の上に立ったとき、どんな感じがしたか。それを言えばいい」
小さい男の子は少し考えた。
「なんか、自分がめっちゃ基準になった感じ」
「それ、そのまま言いなよ」と灯が優しく言うと、小さい男の子は少し照れた顔をした。
「でも、先生はそんな話、求めてないと思う」
背の高い子が言う。正直な子だな、と灯は思った。
「そうかもしれない。でも、自分が面白いと思うことを足すと、発表って変わるよ。先生が求めてる答えをまず言って、それから自分が面白いと思ったこと言えばいい」
「灯さんは、ここで働いてて、面白いですか?」
急に聞かれ、灯は少し間を置いた。
正直に言おうと思った。いい話をしようとか、うまくまとめようとか、そういうことを考えるのをやめた。
「面白いと思う時と、わからなくなる時が、両方ある」
「わからなくなる?」
「うまく説明できなかったとか、もっとこうすればよかったとか。さっきの話も、これで伝わったのかなって、あとで考えると思う」
「でも、教えてくれた」
「うん。わからなくても、やってみないとわからないから」
「なんか、先生みたいなこと言ってる」
背の高い子が言って、灯は笑った。
「それ、そのまま先生に言いなよ」
「言わない」
「今日みたいに、来てくれた人が『へえ』って顔するのを見るのは、やっぱり好きですよ」
「へえ」と男の子が言った。
さっきと同じ言葉だったが、今度は本物の「へえ」だった。自分で「へえ」と言ってから、男の子は少し笑った。気づいてる。
二人は「ありがとうございました」と言って帰った。お辞儀が丁寧だった。帰りながら二人で何か話していた。何を話しているかは聞こえなかったが、さっきより軽い顔をしていた。
灯は広場に一人残って、子午線の上に立った。
足元の石畳に刻まれた東経135度の線は、細くて、でも確かにそこにあった。日本中の誰かが今この瞬間も、ここの空の時間で動いている。それはいつ考えても、少し不思議な気持ちになる。
後ろから声がした。
「どうでした、さっきの子達」
白石だった。窓から見えたらしかった。いつの間に来ていたのか、灯は気づかなかった。
「自由研究の発表が終わった子たち。もっと調べてこいって先生に言われたらしくて」
「それで?」
「意味ができた場所の話をしました。うまく伝わったかわからないけど」
「さっき、外で笑ってたじゃないですか。伝わってたんじゃないですか」
「白石さん、ずっと見てたんですか」
「たまたまです」
灯は「たまたま、ね」と心の中で思ったが、口には出さなかった。
白石は灯の隣に立って、子午線の線を見た。
「灯さんの話し方、好きですよ。難しくしない」
「白石さんにそれ言われると、少し悔しい」
「なんで」
「白石さんのほうが、ずっとうまいから」
「そうですか」
白石はそう言い、空を見上げた。少しの間があった。
「今夜、晴れそうですね」
「そうですね」
「晴れたら、木星が見えますよ。今、夜空で一番明るい」
「知ってます」
「知ってますよね」
「知ってます」
「じゃあ、帰り道に探してみてください」
「そうします」
灯は少し笑った。それだけのことなのに、なんとなく、帰るのが少し楽しみになった。
二人はしばらく、並んで空を見ていた。
特に何も起きなかった。
でも、それでよかった。九月の空は、夏より少しだけ高い所にある。明石の空は、今日も日本の時間を動かしていた。
メモ帳を持ってきてせっせと書き取る子もいれば、写真ばかり撮ってあまり読まない子もいる。連れてこられた様子で終始退屈そうな子もいた。
本当に、いろんな子がいる。
九月になると、今度は顔つきが変わる。
「発表が終わった」という安堵がにじむ少し軽くなった顔の子もいれば、
まだどこか納得していない表情の子もいる。
だいたい、その二種類だ。
今日来たのは、後者だった。男の子二人組。たぶん小学六年生くらい。一人は背が高くて、一人は少し小さかった。二人とも玄関を入ってきた時、どことなく不満そうな顔をしていた。
「先生に、もっと調べてこいって言われて」
背の高い子がやや投げやり気味に言う。
「どんなテーマで調べたんですか?」
「日本標準時。明石が基準になってるやつ」
「ああ、ここのテーマですね。発表したのに、もっと調べてこいって?」
「なんで明石なんかが基準なのかが、わかってないって」
「なんか、って言いましたか?」
灯は微笑む。
男の子はちょっとばつが悪そうな顔をした。
「言ってない。先生が言った」
「先生が?」
「なんで明石みたいな小さい町が、って」
「そうですか」
灯は少しだけ、ムッとした。でもそれは顔に出さなかった。「明石みたいな」という言い方が、どこか引っかかった。十年以上ここに住んで、今はここで働いている灯にとって、明石は「みたいな」がつく場所ではない。でも先生の言い方を男の子に言っても仕方なかった。
「じゃあ、一緒に考えましょうか」
灯は二人を、一階の「子午線」展示コーナーに連れていった。
東経135度の線が日本列島を縦に走っている大きなパネルがある。明石を通っているその線は、北は北海道から南は九州まで、いくつかの都市を通っている。灯はこのパネルが好きだった。シンプルな地図に一本の線だけ。でもその線に、たくさんの話が詰まっている。
「この線のこと、知ってますか」
「子午線」と小さい方の男の子が言った。勉強してきた声だった。
「そうです。日本標準時子午線。これが基準になってます。なんで135度が選ばれたか、調べた?」
「グリニッジ天文台からちょうど九時間の場所だから」
背の高い方が答えた。
「正解。じゃあ、なんでその線が明石を通ってるか」
「……それが、よくわからなくて」
「先生に聞いたら?」
「先生は教えてくれなかった。自分で調べてこいって」
「そうか。先生、いいこと言った」
男の子はちょっと不満そうな顔をした。先生の味方をされるとは思っていなかったのだろう。
灯は、ちょっと考えた。
説明の仕方がいくつかある。歴史的な話、地理的な話、政治的な話。全部正確だけど、小学生に全部言っても仕方ない。それより、何が一番「へえ」と思えるか。灯はいつも、そこから考える。正確さより先に、「これを聞いたら面白いと思うかな」を考える。それが正しいかどうか、まだ自信はないけれど。
「ちょっと来て」
灯は二人を、建物の外に連れ出した。天文科学館の前の広場には、地面に子午線が引いてある。東経135度のラインが、石畳に刻まれている。観光客はよく写真を撮っていく。でも灯は、写真より「立ってみる」ことが大事だと思っている。
「この線の上に立ってみて」
二人が線の上に立った。背の高い子は少し照れたような顔をした。小さい子は、真剣な顔で線を踏んだ。
「今、二人は東経135度の上にいます。この瞬間、日本のどこにいても、時計の時刻はここの太陽の位置を基準にしてる。つまり日本中の人が、今この場所の空を見て時間を決めてる」
「日本中が?」と小さいほうが聞いた。
「日本中が。北海道の人も、沖縄の人も、東京の人も、みんな明石の空を見て時間を決めてる。なんか、すごくない?」
二人はしばらく黙った。
背の高い子が空を見上げた。小さい子は足元の線を見た。
「先生が言った『なんで明石みたいな』って話だけど」と灯は続けた。「なんで明石が選ばれたかより、明石が選ばれてどうなったか、の話をするといいかもしれない。意味ができた場所の話」
「意味ができた?」
「ここに線が引かれる前は、明石はただの町でした。でも135度を選んで、その線が明石を通ったから、ここに意味ができた。時間の基準になった。それって、最初から特別な場所だったんじゃなくて、選ばれることで特別になったってこと」
「その話、発表で使っていいですか」と小さい方が聞いた。
「もちろん。でも、自分の言葉で言い直して。私の言い方は、あなたの発表には合わないかもしれないから」
「自分の言葉?」
「さっき線の上に立ったとき、どんな感じがしたか。それを言えばいい」
小さい男の子は少し考えた。
「なんか、自分がめっちゃ基準になった感じ」
「それ、そのまま言いなよ」と灯が優しく言うと、小さい男の子は少し照れた顔をした。
「でも、先生はそんな話、求めてないと思う」
背の高い子が言う。正直な子だな、と灯は思った。
「そうかもしれない。でも、自分が面白いと思うことを足すと、発表って変わるよ。先生が求めてる答えをまず言って、それから自分が面白いと思ったこと言えばいい」
「灯さんは、ここで働いてて、面白いですか?」
急に聞かれ、灯は少し間を置いた。
正直に言おうと思った。いい話をしようとか、うまくまとめようとか、そういうことを考えるのをやめた。
「面白いと思う時と、わからなくなる時が、両方ある」
「わからなくなる?」
「うまく説明できなかったとか、もっとこうすればよかったとか。さっきの話も、これで伝わったのかなって、あとで考えると思う」
「でも、教えてくれた」
「うん。わからなくても、やってみないとわからないから」
「なんか、先生みたいなこと言ってる」
背の高い子が言って、灯は笑った。
「それ、そのまま先生に言いなよ」
「言わない」
「今日みたいに、来てくれた人が『へえ』って顔するのを見るのは、やっぱり好きですよ」
「へえ」と男の子が言った。
さっきと同じ言葉だったが、今度は本物の「へえ」だった。自分で「へえ」と言ってから、男の子は少し笑った。気づいてる。
二人は「ありがとうございました」と言って帰った。お辞儀が丁寧だった。帰りながら二人で何か話していた。何を話しているかは聞こえなかったが、さっきより軽い顔をしていた。
灯は広場に一人残って、子午線の上に立った。
足元の石畳に刻まれた東経135度の線は、細くて、でも確かにそこにあった。日本中の誰かが今この瞬間も、ここの空の時間で動いている。それはいつ考えても、少し不思議な気持ちになる。
後ろから声がした。
「どうでした、さっきの子達」
白石だった。窓から見えたらしかった。いつの間に来ていたのか、灯は気づかなかった。
「自由研究の発表が終わった子たち。もっと調べてこいって先生に言われたらしくて」
「それで?」
「意味ができた場所の話をしました。うまく伝わったかわからないけど」
「さっき、外で笑ってたじゃないですか。伝わってたんじゃないですか」
「白石さん、ずっと見てたんですか」
「たまたまです」
灯は「たまたま、ね」と心の中で思ったが、口には出さなかった。
白石は灯の隣に立って、子午線の線を見た。
「灯さんの話し方、好きですよ。難しくしない」
「白石さんにそれ言われると、少し悔しい」
「なんで」
「白石さんのほうが、ずっとうまいから」
「そうですか」
白石はそう言い、空を見上げた。少しの間があった。
「今夜、晴れそうですね」
「そうですね」
「晴れたら、木星が見えますよ。今、夜空で一番明るい」
「知ってます」
「知ってますよね」
「知ってます」
「じゃあ、帰り道に探してみてください」
「そうします」
灯は少し笑った。それだけのことなのに、なんとなく、帰るのが少し楽しみになった。
二人はしばらく、並んで空を見ていた。
特に何も起きなかった。
でも、それでよかった。九月の空は、夏より少しだけ高い所にある。明石の空は、今日も日本の時間を動かしていた。



