七月の最終土曜日、観望会の日だった。
明石の天文科学館では、月に数回、屋上の望遠鏡を使った観望会を開催している。参加費は小学生以上が三百円。天気が良ければ惑星や月が見られる。曇りや雨の場合は中止になるが、この日は朝から快晴で、灯は昼ごろから「今日はいける」と思っていた。
今日の天体は土星だった。
七月の土星は、夜空の中でも存在感がある。環が地球に向いている角度がよくて、望遠鏡を覗けば、小学生でも「あ、これが土星だ」とわかる。灯は観望会のたびに来館者の反応を見るのが好きだった。
初めて見た人が「ほんとうに環がある」という顔をするのを見るのが、この仕事で一番好きな瞬間のひとつかもしれない。
灯は受付と案内を担当していた。参加者は二十名ほど。家族連れが多かったが、一人で来た人も何人かいた。その中に、三十代くらいの女性がいた。きちんとした格好をしていて——薄手のシャツに、きれいに折り目のついたパンツ。どこかに出かけた帰りか、あるいは少し気合いを入れてきたのか——一人で来ているのに少し緊張しているように見えた。
灯は受付票を受け取りながら、「お一人ですか」と聞くと「はい」と女性は答えた。声が少し硬かった。
「初めてですか」
「はい」
「じゃあ列の真ん中あたりに並んでいただくと、見やすいと思います」
もう一言、何か言えばよかったかな。と思いながら、灯は次の参加者の受付をした。
屋上に上がる前、集合場所のロビーで参加者たちが少しずつ固まり始めた。家族連れはすぐに輪になる。子どもたちが走り回って、親が「こら静かにしぃ」と言う。常連らしいおじさんが白石に話しかけていた。去年も来たとか、先月の月の観望会も来たとか、そういう話をしていた。
一人で来た女性は、その輪の外側に立っていた。
スマホを見ている風でもなく、展示を読んでいる風でもなく、ただ、静かに立っていた。緊張しているというよりどこにいればいいかわからない、という感じの立ち方だった。
灯はその様子を見ながら、声をかけるタイミングを探していた。でも探しているうちに白石が「では屋上に上がりましょう」と言って、みんなが動き始めた。
また逃した、と思った。
屋上に上がって、望遠鏡を覗く順番を待ちながら、その女性が隣の家族連れに少し押されて、端のほうに寄っていくのを灯は見ていた。子どもたちが走り回って、大人が「こら」と言って、その隙間で女性はだんだん端に追いやられていた。声をかけようかな、と思った。でも、観望会は白石が主担当で、灯は補助だった。
自分が出ていくべきかどうか、わからなかった。
灯はこういうとき、いつも少し遅れる。
誰かを助けたいと思う。でも「余計なお世話じゃないか」とか「白石さんがうまくやるんじゃないか」とか、「そもそも自分が声をかけることで、かえって気まずくなるんじゃないか」とか、いろんなことを考えているうちに、タイミングを逃す。考えすぎる、ということは自分でわかっている。でもやめられない。
今夜も、たぶん逃す。灯はそう思った。
土星を覗いた子どもたちが、次々と「見えた!」「環がある!」と言った。その声は屋上全体に広がって、一人で来ていた女性も、その声を聞いて少し頬がゆるんだ。
よかった、と灯は思った。子どもたちの声が代わりに場を作ってくれた。
それでも彼女は、列の端で一歩分だけ後ろに立ったままだった。
順番が来て、女性が望遠鏡を覗いた。
白石が横に立って、ピントを微調整した。慣れた手つきだった。白石は望遠鏡の操作を参加者に任せることもあるが、初めての人には必ず自分でピントを合わせてから渡す。それが、見えなかったときの落胆を防ぐための、白石なりのやり方だと灯は思っていた。
「環、見えますか」
「見えます……これが、土星の」
「はい。あの環は、氷と岩のかけらでできています。薄さは、直径に比べてほとんど紙一枚みたいなものなんですよ」
「紙一枚」
「光の加減で、角度が変わると消えて見えることもあります。今夜はよく見える夜です」
「消えることがあるんですね」
「ええ。何十年かに一度、地球から見ると環が横になって、ほとんど見えなくなります。でも消えたわけじゃない。ずっとある」
女性は望遠鏡から目を離さなかった。
灯は少し離れた所に立って、その場面を見ていた。
白石の説明の仕方はいつもそうだった。難しい言葉を使わない。でも、ちゃんと「本当のこと」を言う。紙一枚みたいな薄さ、という言い方は灯も好きだった。スペックや数字より、そういう言い方のほうが、星が「ちゃんとそこにある」感じがする。「消えたわけじゃない、ずっとある」という言い方も、白石らしかった。見えないものの話をするとき、白石はいつもそれが「ある」という話をする。
灯は自分が解説担当のとき、どんな言い方をしているか、ふと考えた。正確には言えているはずだった。数字も、名前も、間違えない。でも「紙一枚みたいな」という言い方は、自分から出てきたことがない。それがなぜなのか、うまく説明できなかった。
観望会が終わって、参加者が帰り始めたころ、灯は後片付けをしながら一人で来ていた女性が出口で少し立ち止まっているのを見た。何か言いたそうな顔をしていた。受付のほうを見て、カウンターのほうを見て、でも言えなくて、帰っていった。
灯もうまく声をかけられなかった。
どうすればよかったか、帰りの片付けをしながら少し考えた。でも、答えは出なかった。
後日、天文科学館のウェブサイトの「お問い合わせ」フォームにメッセージが来た。館のアドレスに届いたメールを灯が受信した。
「先日の観望会に参加しました。一人で来るのが少し不安でしたが、土星の環が見られてよかったです。白石さんの説明が、とてもわかりやすかったです。また来てもいいですか」
灯は返信を書いた。
三回書き直した。
最初は長すぎた。「ご参加いただきありがとうございました。一人でのご参加、とても嬉しく思います。次回はぜひ……」と書いていて、途中でこれは押しつけがましいな、と思った。次は短すぎた。「ありがとうございました。またどうぞ」だけでは何かが足りない気がした。三回目で、これでいいかなと思えた。
「お越しいただきありがとうございました。もちろん、またいつでもどうぞ。一人でのご参加も大歓迎です。次回の観望会は八月十二日(土)、ペルセウス座流星群の夜に予定しています」
送信ボタンを押してから「白石さんの説明が、とても」というくだりを白石に言うべきかどうか一瞬迷った。
言うと白石が照れるかもしれない。けれど、言わないままだと、届いた言葉が宙ぶらりんになる気がした。誰かが誰かについて語った言葉は、その人に届いたほうがいい。そう思って、私は言った。
「先日の観望会で、白石さんの説明がとてもわかりやすかったって、メールが来ていました」
白石は手元の資料から顔を上げた。
「そうですか」
「はい。また来てもいいか、って聞いてました。もちろんって書きました」
「それはよかった」
「白石さんに伝えたほうがいいかなと思って」
白石は少し間を置いた。
「三回書き直したんですか、返信」
「なんで知ってるんですか」
「書き直す人の顔してた」
灯は少し笑った。
「三回書き直す人の返信は、ちゃんと届くと思いますよ」
「そうだといいんですけど」
灯はパソコンの画面に向き直った。白石はそれ以上何も言わなかった。資料に目を戻して赤いボールペンで何かを書き込んでいた。
その夜、帰り道に空を見上げたら星がいくつか見えた。梅雨が明けたばかりの空は、まだ少し湿っていた。でも土星はちゃんとそこにあるんだろうな、と灯は思った。 紙一枚みたいな環を持って。消えたわけじゃない、ずっとある。白石の声でその言葉が思い出された。
来月、あの女性がまた来てくれたら今度はちゃんと声をかけよう。受付の時に、一言だけでいいから。灯はそう思いながら、魚の棚商店街の前を通り過ぎた。夜の商店街は静かで、潮の匂いがした。明石の夜はいつもそうだった。
明石の天文科学館では、月に数回、屋上の望遠鏡を使った観望会を開催している。参加費は小学生以上が三百円。天気が良ければ惑星や月が見られる。曇りや雨の場合は中止になるが、この日は朝から快晴で、灯は昼ごろから「今日はいける」と思っていた。
今日の天体は土星だった。
七月の土星は、夜空の中でも存在感がある。環が地球に向いている角度がよくて、望遠鏡を覗けば、小学生でも「あ、これが土星だ」とわかる。灯は観望会のたびに来館者の反応を見るのが好きだった。
初めて見た人が「ほんとうに環がある」という顔をするのを見るのが、この仕事で一番好きな瞬間のひとつかもしれない。
灯は受付と案内を担当していた。参加者は二十名ほど。家族連れが多かったが、一人で来た人も何人かいた。その中に、三十代くらいの女性がいた。きちんとした格好をしていて——薄手のシャツに、きれいに折り目のついたパンツ。どこかに出かけた帰りか、あるいは少し気合いを入れてきたのか——一人で来ているのに少し緊張しているように見えた。
灯は受付票を受け取りながら、「お一人ですか」と聞くと「はい」と女性は答えた。声が少し硬かった。
「初めてですか」
「はい」
「じゃあ列の真ん中あたりに並んでいただくと、見やすいと思います」
もう一言、何か言えばよかったかな。と思いながら、灯は次の参加者の受付をした。
屋上に上がる前、集合場所のロビーで参加者たちが少しずつ固まり始めた。家族連れはすぐに輪になる。子どもたちが走り回って、親が「こら静かにしぃ」と言う。常連らしいおじさんが白石に話しかけていた。去年も来たとか、先月の月の観望会も来たとか、そういう話をしていた。
一人で来た女性は、その輪の外側に立っていた。
スマホを見ている風でもなく、展示を読んでいる風でもなく、ただ、静かに立っていた。緊張しているというよりどこにいればいいかわからない、という感じの立ち方だった。
灯はその様子を見ながら、声をかけるタイミングを探していた。でも探しているうちに白石が「では屋上に上がりましょう」と言って、みんなが動き始めた。
また逃した、と思った。
屋上に上がって、望遠鏡を覗く順番を待ちながら、その女性が隣の家族連れに少し押されて、端のほうに寄っていくのを灯は見ていた。子どもたちが走り回って、大人が「こら」と言って、その隙間で女性はだんだん端に追いやられていた。声をかけようかな、と思った。でも、観望会は白石が主担当で、灯は補助だった。
自分が出ていくべきかどうか、わからなかった。
灯はこういうとき、いつも少し遅れる。
誰かを助けたいと思う。でも「余計なお世話じゃないか」とか「白石さんがうまくやるんじゃないか」とか、「そもそも自分が声をかけることで、かえって気まずくなるんじゃないか」とか、いろんなことを考えているうちに、タイミングを逃す。考えすぎる、ということは自分でわかっている。でもやめられない。
今夜も、たぶん逃す。灯はそう思った。
土星を覗いた子どもたちが、次々と「見えた!」「環がある!」と言った。その声は屋上全体に広がって、一人で来ていた女性も、その声を聞いて少し頬がゆるんだ。
よかった、と灯は思った。子どもたちの声が代わりに場を作ってくれた。
それでも彼女は、列の端で一歩分だけ後ろに立ったままだった。
順番が来て、女性が望遠鏡を覗いた。
白石が横に立って、ピントを微調整した。慣れた手つきだった。白石は望遠鏡の操作を参加者に任せることもあるが、初めての人には必ず自分でピントを合わせてから渡す。それが、見えなかったときの落胆を防ぐための、白石なりのやり方だと灯は思っていた。
「環、見えますか」
「見えます……これが、土星の」
「はい。あの環は、氷と岩のかけらでできています。薄さは、直径に比べてほとんど紙一枚みたいなものなんですよ」
「紙一枚」
「光の加減で、角度が変わると消えて見えることもあります。今夜はよく見える夜です」
「消えることがあるんですね」
「ええ。何十年かに一度、地球から見ると環が横になって、ほとんど見えなくなります。でも消えたわけじゃない。ずっとある」
女性は望遠鏡から目を離さなかった。
灯は少し離れた所に立って、その場面を見ていた。
白石の説明の仕方はいつもそうだった。難しい言葉を使わない。でも、ちゃんと「本当のこと」を言う。紙一枚みたいな薄さ、という言い方は灯も好きだった。スペックや数字より、そういう言い方のほうが、星が「ちゃんとそこにある」感じがする。「消えたわけじゃない、ずっとある」という言い方も、白石らしかった。見えないものの話をするとき、白石はいつもそれが「ある」という話をする。
灯は自分が解説担当のとき、どんな言い方をしているか、ふと考えた。正確には言えているはずだった。数字も、名前も、間違えない。でも「紙一枚みたいな」という言い方は、自分から出てきたことがない。それがなぜなのか、うまく説明できなかった。
観望会が終わって、参加者が帰り始めたころ、灯は後片付けをしながら一人で来ていた女性が出口で少し立ち止まっているのを見た。何か言いたそうな顔をしていた。受付のほうを見て、カウンターのほうを見て、でも言えなくて、帰っていった。
灯もうまく声をかけられなかった。
どうすればよかったか、帰りの片付けをしながら少し考えた。でも、答えは出なかった。
後日、天文科学館のウェブサイトの「お問い合わせ」フォームにメッセージが来た。館のアドレスに届いたメールを灯が受信した。
「先日の観望会に参加しました。一人で来るのが少し不安でしたが、土星の環が見られてよかったです。白石さんの説明が、とてもわかりやすかったです。また来てもいいですか」
灯は返信を書いた。
三回書き直した。
最初は長すぎた。「ご参加いただきありがとうございました。一人でのご参加、とても嬉しく思います。次回はぜひ……」と書いていて、途中でこれは押しつけがましいな、と思った。次は短すぎた。「ありがとうございました。またどうぞ」だけでは何かが足りない気がした。三回目で、これでいいかなと思えた。
「お越しいただきありがとうございました。もちろん、またいつでもどうぞ。一人でのご参加も大歓迎です。次回の観望会は八月十二日(土)、ペルセウス座流星群の夜に予定しています」
送信ボタンを押してから「白石さんの説明が、とても」というくだりを白石に言うべきかどうか一瞬迷った。
言うと白石が照れるかもしれない。けれど、言わないままだと、届いた言葉が宙ぶらりんになる気がした。誰かが誰かについて語った言葉は、その人に届いたほうがいい。そう思って、私は言った。
「先日の観望会で、白石さんの説明がとてもわかりやすかったって、メールが来ていました」
白石は手元の資料から顔を上げた。
「そうですか」
「はい。また来てもいいか、って聞いてました。もちろんって書きました」
「それはよかった」
「白石さんに伝えたほうがいいかなと思って」
白石は少し間を置いた。
「三回書き直したんですか、返信」
「なんで知ってるんですか」
「書き直す人の顔してた」
灯は少し笑った。
「三回書き直す人の返信は、ちゃんと届くと思いますよ」
「そうだといいんですけど」
灯はパソコンの画面に向き直った。白石はそれ以上何も言わなかった。資料に目を戻して赤いボールペンで何かを書き込んでいた。
その夜、帰り道に空を見上げたら星がいくつか見えた。梅雨が明けたばかりの空は、まだ少し湿っていた。でも土星はちゃんとそこにあるんだろうな、と灯は思った。 紙一枚みたいな環を持って。消えたわけじゃない、ずっとある。白石の声でその言葉が思い出された。
来月、あの女性がまた来てくれたら今度はちゃんと声をかけよう。受付の時に、一言だけでいいから。灯はそう思いながら、魚の棚商店街の前を通り過ぎた。夜の商店街は静かで、潮の匂いがした。明石の夜はいつもそうだった。



