六月半ばの水曜日、午後二時。明石の天文科学館の一階ロビーは、雨の匂いがしていた。学芸員の田中灯はカウンターの内側でリーフレットを整えながら、ガラス扉の向こうを見ていた。
梅雨入りしたばかりの空はやる気のない灰色というか、とにかく天気予報が「くもり時々雨」と言っていた通りの空だった。
午前中に一度だけ晴れ間が見えて、「あ、今日はそこまでひどくならないかも」と思ったのに、昼過ぎからまた雲が厚くなった。明石の梅雨は、こういうことをよくする。
今日の来館者は少ない。平日の午後、しかも雨模様。子ども連れの家族は来ない。修学旅行生は京都やUSJには行くが、明石にはまず来ない。灯はカウンター業務と企画展示の準備を掛け持ちしながら、午前中に一度だけ「プラネタリウムは何時からですか」と聞いてきたおじいさんに対応しただけだった。
おじいさんは「ほな来週また来るわ」と言って帰った。傘を差して、ゆっくりと。カウンターの端に、今月の企画展示のチラシが積んであった。「星と時間の話」という、毎年この時期にやっている定番の展示だ。
灯は三年連続でその準備に関わっているが、毎年どこかに誤字を出す。今年は「こじうまえさ」になっているパネルを印刷が上がってから発見した。「こうまえさ」、つまり「こうめざ」が正しい。プリントし直しをお願いする時、業者の担当者が笑いをこらえていた。
灯は今でもそれを思い出すと少し遠くを見る顔になる。十四時十五分。扉が開いた。入ってきたのは、小学校四、五年生くらいの女の子だった。ランドセルを背負っていた。制服ではなく私服だったから、たぶん今日は学校が早く終わったのだろう。外は雨で、傘を持っていなかった。髪が少し湿っていた。靴も、つま先のあたりが濡れていた。走ってきたのか、それとも雨の中をしばらく歩いてきたのか。女の子はロビーに入ってきて、入館料の掲示を見て、財布を取り出し小銭を数え、また掲示を見た。財布をまた見ると唇を少し動かして、何かを確認しているようだった。
灯はその様子を、カウンター越しにそっと観察していた。高校生以下は無料。女の子はその料金表示を見つけて、ほっとしたように息をついた。肩の力が、見ていてわかるくらい抜けた。
それから灯のいるカウンターに近づいてきた。
「あの、入れますか」
「もちろんです。お一人ですか?」
「はい」
「どうぞ」
灯はスタンプを押して、入館証を渡した。女の子は丁寧に両手で受け取った。育ちがよさそうだな、と灯は思った。女の子はロビーをゆっくり歩きながら、常設展示のパネルを読む。明石が東経135度の日本標準時子午線上にあること、ここの時計塔が時刻の基準になっていたこと。小学生がこういう展示を最初から順番に読んでいくのは、あまり多くない。たいていは途中で飽きて、体験コーナーに走っていく。この子は違った。立ち止まって、指でパネルをなぞりながら、ひとつひとつ読んでいた。
灯はカウンターから、女の子の後ろ姿を見ていた。雨がまた強くなった。屋根を叩く音がした。女の子は窓の外を見た。傘がない。帰れない。でも誰かに電話するふうでもなかった。スマートフォンを取り出して画面を確認したが、すぐにポケットに戻した。ただ展示を見ながら、雨が弱まるのを待っているように見えた。
灯は「声をかけようかな」と思って、やめた。声をかけたら、「大丈夫?」「一人なの?」「傘ないの?」って矢継ぎ早に聞いてしまいそうだから。
子どもに対して、大人がいっぺんにたくさん聞くのは、なんか違う気がした。それより——灯は館内放送のマイクを手に取った。
「本日、館内は空調を入れておりますので、ゆっくりご見学いただけます。また、雨が強くなっておりますので、どうぞ館内でお時間をお過ごしください。本日のプラネタリウム最終回は十六時からです」
それだけ言った。
女の子は振り返って、カウンターのほうを見た。灯と目が合った。灯は特に何もせず、リーフレットの整理に戻った。女の子は少しだけ、口元が動いた。笑ったのかもしれなかった。
後半十五時を過ぎたころ、プラネタリウム解説担当の白石が階段を降りてきた。プラネタリウムの投影準備を終えたらしく、手に解説メモのバインダーを持っていた。白石はいつもこのバインダーを持ち歩いている。中には解説のスクリプトだけじゃなくて、参考にした本のコピーや、自分で書いたメモが挟んである。
灯は一度だけ中を見せてもらったことがあるが、字が細かくて、でも不思議と読みやすかった。
「灯さん、今日の最終回、客入り少なそうですね」
「そうですね。でも一人、小学生の子がいます。展示を全部読んでます」
白石は女の子のほうをちらと見た。ちょうど女の子は、明石のまちのジオラマ模型の前にしゃがんで、角度を変えながら眺めていた。
「傘、なさそうですね」
「ええ。雨宿りも兼ねてると思うんですけど、展示もちゃんと読んでくれてて」
「それはいい来館者だ」
白石はそれ以上何も言わなかった。カウンターの脇にある椅子に腰かけて、次回の解説のメモを確認していた。赤いボールペンで、所どころ書き込みをしていた。十六時のプラネタリウム。観客は結局、女の子と、雨宿りをかねてふらりと入ってきたらしい中年男性の二人だった。
中年男性は入ってきた時少し迷った顔をしていたが、受付で「まもなく、プラネタリウムが始まりますよ」と言ったら「そうか、じゃあ入るわ」と言った。
そういう人が好きだった。
灯は今日の解説担当ではなかったが、ドームの端の席に座って、白石の解説を聞いていた。こういう時、こっそり聞くのが好きだった。自分が担当の時は緊張しているから、白石の解説は非番の時のほうが、ちゃんと耳に入ってくる気がした。
ドームが暗くなった。星が出た。白石の声が、静かにドームに広がった。
「今夜、晴れていたら、明石の空にはこんな星が見えます」
梅雨の曇り空の話をする時、白石はいつも「晴れていたら」と言う。今日みたいに雨の日に来た人のために。現実の空が見えなくても、「でも星はある」と、そういう言い方をする。
灯は最初にそれを聞いた時、なんかうまいな、と思った。慰めでもなく、嘘でもなく、ただ「ある」という話をする。
「これは夏の大三角。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイル。三つの星を結ぶと、大きな三角形になります。 今夜の明石の空には、この三角形が見えるはずでした。雨が続いたら、晴れた夜に探してみてください」
女の子が、小さく「わあ」と言う声が聞こえた。解説は三十分。ドームが明るくなった時、女の子は座席からなかなか立ち上がらなかった。天井を見上げたまま、まだ星が残っているかのように。
中年男性は「ええもん見たわ」と言いながら出ていった。そういう人が、やっぱり好きだったな。
出口の所で、灯は女の子にそっと声をかけた。
「プラネタリウム、初めてでしたか?」
「二回目です。でも、夜の星の話してくれたの、初めてで」
「白石さん、夜の話が上手なんです」
「雨の日に来て、よかったです」
女の子はそう言って、少し笑った。さっきロビーで口元が動いた時見えた笑顔と、同じ種類の笑顔だった。女の子はロビーを出た。出口の所に、貸し出し用の傘が立てかけてあった。館長が三年前から置いている、「よかったら使って返さなくていい」という傘。ビニール傘が五本。女の子は一本借りて、帰っていった。灯は、その背中を見送った。空はまだ灰色だったが、雨は少し弱くなっていた。
翌日、カウンターに折り畳み傘が一本、置いてあった。メモが貼ってあった。
「かりたぶんのかわりにおいておきます」と、きれいなひらがなで書いてあった。名前はなかった。
灯はそのメモをしばらく見てから、館長に「貸し傘、一本増えました」と報告した。館長は「ええやん」と言った。
白石は「へえ」と言って、少し笑った。それだけだった。でも灯は、その日の午後、リーフレットを整えながら、なんとなく気分がよかった。雨はまだ降っていたが、窓の外の空が朝より少しだけ明るくなっていた。
梅雨入りしたばかりの空はやる気のない灰色というか、とにかく天気予報が「くもり時々雨」と言っていた通りの空だった。
午前中に一度だけ晴れ間が見えて、「あ、今日はそこまでひどくならないかも」と思ったのに、昼過ぎからまた雲が厚くなった。明石の梅雨は、こういうことをよくする。
今日の来館者は少ない。平日の午後、しかも雨模様。子ども連れの家族は来ない。修学旅行生は京都やUSJには行くが、明石にはまず来ない。灯はカウンター業務と企画展示の準備を掛け持ちしながら、午前中に一度だけ「プラネタリウムは何時からですか」と聞いてきたおじいさんに対応しただけだった。
おじいさんは「ほな来週また来るわ」と言って帰った。傘を差して、ゆっくりと。カウンターの端に、今月の企画展示のチラシが積んであった。「星と時間の話」という、毎年この時期にやっている定番の展示だ。
灯は三年連続でその準備に関わっているが、毎年どこかに誤字を出す。今年は「こじうまえさ」になっているパネルを印刷が上がってから発見した。「こうまえさ」、つまり「こうめざ」が正しい。プリントし直しをお願いする時、業者の担当者が笑いをこらえていた。
灯は今でもそれを思い出すと少し遠くを見る顔になる。十四時十五分。扉が開いた。入ってきたのは、小学校四、五年生くらいの女の子だった。ランドセルを背負っていた。制服ではなく私服だったから、たぶん今日は学校が早く終わったのだろう。外は雨で、傘を持っていなかった。髪が少し湿っていた。靴も、つま先のあたりが濡れていた。走ってきたのか、それとも雨の中をしばらく歩いてきたのか。女の子はロビーに入ってきて、入館料の掲示を見て、財布を取り出し小銭を数え、また掲示を見た。財布をまた見ると唇を少し動かして、何かを確認しているようだった。
灯はその様子を、カウンター越しにそっと観察していた。高校生以下は無料。女の子はその料金表示を見つけて、ほっとしたように息をついた。肩の力が、見ていてわかるくらい抜けた。
それから灯のいるカウンターに近づいてきた。
「あの、入れますか」
「もちろんです。お一人ですか?」
「はい」
「どうぞ」
灯はスタンプを押して、入館証を渡した。女の子は丁寧に両手で受け取った。育ちがよさそうだな、と灯は思った。女の子はロビーをゆっくり歩きながら、常設展示のパネルを読む。明石が東経135度の日本標準時子午線上にあること、ここの時計塔が時刻の基準になっていたこと。小学生がこういう展示を最初から順番に読んでいくのは、あまり多くない。たいていは途中で飽きて、体験コーナーに走っていく。この子は違った。立ち止まって、指でパネルをなぞりながら、ひとつひとつ読んでいた。
灯はカウンターから、女の子の後ろ姿を見ていた。雨がまた強くなった。屋根を叩く音がした。女の子は窓の外を見た。傘がない。帰れない。でも誰かに電話するふうでもなかった。スマートフォンを取り出して画面を確認したが、すぐにポケットに戻した。ただ展示を見ながら、雨が弱まるのを待っているように見えた。
灯は「声をかけようかな」と思って、やめた。声をかけたら、「大丈夫?」「一人なの?」「傘ないの?」って矢継ぎ早に聞いてしまいそうだから。
子どもに対して、大人がいっぺんにたくさん聞くのは、なんか違う気がした。それより——灯は館内放送のマイクを手に取った。
「本日、館内は空調を入れておりますので、ゆっくりご見学いただけます。また、雨が強くなっておりますので、どうぞ館内でお時間をお過ごしください。本日のプラネタリウム最終回は十六時からです」
それだけ言った。
女の子は振り返って、カウンターのほうを見た。灯と目が合った。灯は特に何もせず、リーフレットの整理に戻った。女の子は少しだけ、口元が動いた。笑ったのかもしれなかった。
後半十五時を過ぎたころ、プラネタリウム解説担当の白石が階段を降りてきた。プラネタリウムの投影準備を終えたらしく、手に解説メモのバインダーを持っていた。白石はいつもこのバインダーを持ち歩いている。中には解説のスクリプトだけじゃなくて、参考にした本のコピーや、自分で書いたメモが挟んである。
灯は一度だけ中を見せてもらったことがあるが、字が細かくて、でも不思議と読みやすかった。
「灯さん、今日の最終回、客入り少なそうですね」
「そうですね。でも一人、小学生の子がいます。展示を全部読んでます」
白石は女の子のほうをちらと見た。ちょうど女の子は、明石のまちのジオラマ模型の前にしゃがんで、角度を変えながら眺めていた。
「傘、なさそうですね」
「ええ。雨宿りも兼ねてると思うんですけど、展示もちゃんと読んでくれてて」
「それはいい来館者だ」
白石はそれ以上何も言わなかった。カウンターの脇にある椅子に腰かけて、次回の解説のメモを確認していた。赤いボールペンで、所どころ書き込みをしていた。十六時のプラネタリウム。観客は結局、女の子と、雨宿りをかねてふらりと入ってきたらしい中年男性の二人だった。
中年男性は入ってきた時少し迷った顔をしていたが、受付で「まもなく、プラネタリウムが始まりますよ」と言ったら「そうか、じゃあ入るわ」と言った。
そういう人が好きだった。
灯は今日の解説担当ではなかったが、ドームの端の席に座って、白石の解説を聞いていた。こういう時、こっそり聞くのが好きだった。自分が担当の時は緊張しているから、白石の解説は非番の時のほうが、ちゃんと耳に入ってくる気がした。
ドームが暗くなった。星が出た。白石の声が、静かにドームに広がった。
「今夜、晴れていたら、明石の空にはこんな星が見えます」
梅雨の曇り空の話をする時、白石はいつも「晴れていたら」と言う。今日みたいに雨の日に来た人のために。現実の空が見えなくても、「でも星はある」と、そういう言い方をする。
灯は最初にそれを聞いた時、なんかうまいな、と思った。慰めでもなく、嘘でもなく、ただ「ある」という話をする。
「これは夏の大三角。はくちょう座のデネブ、こと座のベガ、わし座のアルタイル。三つの星を結ぶと、大きな三角形になります。 今夜の明石の空には、この三角形が見えるはずでした。雨が続いたら、晴れた夜に探してみてください」
女の子が、小さく「わあ」と言う声が聞こえた。解説は三十分。ドームが明るくなった時、女の子は座席からなかなか立ち上がらなかった。天井を見上げたまま、まだ星が残っているかのように。
中年男性は「ええもん見たわ」と言いながら出ていった。そういう人が、やっぱり好きだったな。
出口の所で、灯は女の子にそっと声をかけた。
「プラネタリウム、初めてでしたか?」
「二回目です。でも、夜の星の話してくれたの、初めてで」
「白石さん、夜の話が上手なんです」
「雨の日に来て、よかったです」
女の子はそう言って、少し笑った。さっきロビーで口元が動いた時見えた笑顔と、同じ種類の笑顔だった。女の子はロビーを出た。出口の所に、貸し出し用の傘が立てかけてあった。館長が三年前から置いている、「よかったら使って返さなくていい」という傘。ビニール傘が五本。女の子は一本借りて、帰っていった。灯は、その背中を見送った。空はまだ灰色だったが、雨は少し弱くなっていた。
翌日、カウンターに折り畳み傘が一本、置いてあった。メモが貼ってあった。
「かりたぶんのかわりにおいておきます」と、きれいなひらがなで書いてあった。名前はなかった。
灯はそのメモをしばらく見てから、館長に「貸し傘、一本増えました」と報告した。館長は「ええやん」と言った。
白石は「へえ」と言って、少し笑った。それだけだった。でも灯は、その日の午後、リーフレットを整えながら、なんとなく気分がよかった。雨はまだ降っていたが、窓の外の空が朝より少しだけ明るくなっていた。



