連絡が早かったこともあり、くいが家に着いた頃にはむーの手当ての支度は終わっていた。
むーはくいのことをわざわざ玄関まで迎えに行き、そのまま自身の研究室へと案内する。
初めて入ったむーの研究室は薬品臭く、ちゃんはちを抱いていなければすぐに鼻をつまんでいただろう。
そんな研究室は、床に丸められた資料が何十…いや何百も落ちており、ほとんど足の踏み場がなかった。それに、ところどころには失敗作らしき薬瓶が落ちて割れ、それにより破片が散乱していた。気を抜くと足を怪我しそうになってしまう。
そして、部屋の大部分を占める机にはほとんど隙間がない。あるとするのなら、資料を書く用の必要最低限なスペースのみだろう。
机には薬品、薬草、それらを調合する用の丸い容器や試験管、アルコールランプの上に置かれている丸ビーカーなどなどとんでもない量の物が置いてあり、それらを収納するはずの棚は全て開きっぱなし。そしてそこには薬瓶がびっしりと入っていた。
七色に細かくグラデーションになっている薬瓶は殺風景なこの部屋には明るく、輝いていないはずなのに輝いているように見える。
むーは、部屋の一角に申し訳程度に置かれたベッドの上にあった書類の山やらビニール袋という名のゴミやらをどかしながら呟く。
「ちゃんはちはここに寝かしてちょうだい。」
「承知した。しかしこの部屋、生活感が無さすぎる。お前、この部屋にずっと篭りっきりだがどこで寝ているんだ?」
くいはちゃんはちをベッドに寝かせながらそう呟く。
そんなくいに、むーはさも当然かのように言った。
「寝てないわ。」
「は?」
「かれこれ一週間は寝てないわね。一ヶ月前に強力な睡眠制御薬が完成したの。効力が本当にすごくてね。前なんて二週間は寝ずに起きることができたわ。まぁ効果が切れると五日は寝てしまうからそれだけは難点なんだけれどもね、つい先日、強力な安眠剤が出来上がったの。まだ試していないんだけれど、これが成功していたら、一日寝るだけで一週間眠り続けたのと同等なほど疲れが飛ぶのよ。睡眠制御薬の効力が二週間程度だと仮定した場合、安眠剤を試せるのは一週間後だけれど、それまでより良い安眠剤になれるように__」
「あの、もういい。わかった。すまん、デリケートなことを聞いてしまって。」
無表情で淡々と薬について話すむーに恐怖心が湧いたのか、くいは遠慮がちにむーの言葉を止めた。
その声にハッとなったのか、むーは咳払いをする。
「…ちゃんはちの状態についてはしぜいやから話は聞いているわ。もう下がっていいわよ。」
「いや、私はここにいる。」
「いやいいわよ。用意してある薬をかければいいだけだし。」
「それでも側にいさせてくれ。頼む。」
むーは、こんなに必死になってここにとどまるくいを不審そうな目で見つめるが、別にここにいて何か害があるわけではない。
薬品臭いこの部屋には毒物はない。逆に良い効果のある薬ばかりだ。
なので、むーはくいをつま先から目元までじろりと眺めたのち、
「わかったわ。」
と呟く。
正直、くい自身もなぜこんなにここに留まりたいかわからなかった。
__私の任務だった登山家の人は花韮に助けられたのか。いや、助けられた助けられなかった以前に花韮にお礼すら言っていない。それに、結果報告も中枢郷に届けなきゃいけない。
異変解決後もやることはある。こんなところで時間を潰している暇なんてないはずなのに。
それをわかっているのに。
なぜなのだろう。くいは、この場から離れるという選択肢が思いつかなかった。
「…。」
複雑な感情になりながらちゃんはちを見つめるくいを、むーもまた見つめる。
むーは人の感情も自身の感情にも疎い。というか関心がない。
だからか、くいがどうしてここに留まるのか理解ができない。
むーも花幻郷最強のグループ員だ。異変解決後もやるべきことがあることぐらい知っている。
けれど、今のくいにその現実を突きつけることはしなかった。
面倒くさいし自分には関係のないことだから、というのももちろんあるだろう。
しかし、くいと関わるのは"あの十六年"も含めると十七年目。
人としてのくいと関わるのはまだ一年というほんの少しの時間だが、それでも共有した時間は山のように積み重なっている。
くいの人柄ぐらい、人に関心のないむーには分かっていた。
__くいが、自身のやるべきことを放ってこんなに人に関わろうとすることが異常なことを。
「…少し水を持ってくるわ。」
「私のはいい。」
「わかったわ。言っておくけれど、薬品とかに触らないでちょうだいね。」
「承知している。」
むーはその言葉を聞きながら扉を開けた。
左側にある通路を渡り食堂へ移動し、食堂の中にあるキッチンへと足を進める。
そして、棚にある透明なコップを手に取って水道水を注ぐ。
むーは、コップに静かに溜まっていく水を眺めながら思う。
水。それは無色透明であり無味無臭の液体としてこの世界に存在している物質。
冷やせば固形となり氷というものに名を変え、熱せば沸騰して水蒸気へとなる。
水蒸気となった水は上空で冷やされて小さな水や氷のつぶになり、やがて大きく重くなって雨粒となって落ちてくる。
しかし、それは海があればの話である。
むーは、コップに溜まった液体をくるくると揺らし、ゆっくりと傾け、シンクに水を流した。
__煙花散花には海というものがない。
そのため、普通であればこの世界に雨が降ることはないだろう。
しかし、煙花散花には雨が降り、突風を巻き起こしたいわゆる台風というものもくる。
それは一体なぜなのか。
実は、煙花散花には、雲以上の空間にも神々が住う場所が存在する。
雲には花里星という春を司る神たちが住み、その上には天気界というものがあり、さらに上にはあらゆる神たちが住んでいる天界が存在する。
今回話したいことは、天気界について。
天気界では、天気の神であるテンペスタス・ウェザー・デアトン様と、その妻であるアウア・ウェザー・デアヘル様が共同して天気を操作しておられる。
そのおかげで、煙花散花には天気というものが存在しているのだ。
しかし、天気は神が操作している。
一ヶ月ほども雨が長続きすると、煙花散花にも影響がでる。それこそ土砂崩れや川の増水、人の生活など。
だから、神はすべての生物に影響が出ないよう雨の量や降る期間を調整しているのだ。
(…今は止んでいるけれど、つい先ほどまでの雨は、書物で見た情報と合致していない。まぁちゃんはちも異変と見て現にしずくという元凶が出たから異変なのは間違いなさそうね。…けれど、雨粒に魔力が込められたようになったのは三日前ほどから。ちゃんはち達は気づかなかっただけと考えているようだけれど…)
「は?お前なにしてんの?」
自分の世界に入っていたむーは、自分に降りかかった声にハッとする。
声の方向を見るまでもなく、声でその声の主がいかりであることは気づいた。
けれど、一応確認するべく、むーは後ろを振り返る。
思った通り、キッチンの入り口にはいかりがいた。
「…別に、なにもしていないわ。」
「ッチ。退け」
むーは、コップに水を入れ直してすぐにキッチンの入り口へと向かう。
いかりは、そんなむーの謎の行動に苛立ちを感じる。
「…コップに入ってた水をタラタラ捨ててたくせになんなんだよ。結局入れんのかよ。それなら最初からパッと入れてパッと帰れよカス」
そんな独り言を言いながら、いかりもまた、透明なコップを手に取った。
むーはくいのことをわざわざ玄関まで迎えに行き、そのまま自身の研究室へと案内する。
初めて入ったむーの研究室は薬品臭く、ちゃんはちを抱いていなければすぐに鼻をつまんでいただろう。
そんな研究室は、床に丸められた資料が何十…いや何百も落ちており、ほとんど足の踏み場がなかった。それに、ところどころには失敗作らしき薬瓶が落ちて割れ、それにより破片が散乱していた。気を抜くと足を怪我しそうになってしまう。
そして、部屋の大部分を占める机にはほとんど隙間がない。あるとするのなら、資料を書く用の必要最低限なスペースのみだろう。
机には薬品、薬草、それらを調合する用の丸い容器や試験管、アルコールランプの上に置かれている丸ビーカーなどなどとんでもない量の物が置いてあり、それらを収納するはずの棚は全て開きっぱなし。そしてそこには薬瓶がびっしりと入っていた。
七色に細かくグラデーションになっている薬瓶は殺風景なこの部屋には明るく、輝いていないはずなのに輝いているように見える。
むーは、部屋の一角に申し訳程度に置かれたベッドの上にあった書類の山やらビニール袋という名のゴミやらをどかしながら呟く。
「ちゃんはちはここに寝かしてちょうだい。」
「承知した。しかしこの部屋、生活感が無さすぎる。お前、この部屋にずっと篭りっきりだがどこで寝ているんだ?」
くいはちゃんはちをベッドに寝かせながらそう呟く。
そんなくいに、むーはさも当然かのように言った。
「寝てないわ。」
「は?」
「かれこれ一週間は寝てないわね。一ヶ月前に強力な睡眠制御薬が完成したの。効力が本当にすごくてね。前なんて二週間は寝ずに起きることができたわ。まぁ効果が切れると五日は寝てしまうからそれだけは難点なんだけれどもね、つい先日、強力な安眠剤が出来上がったの。まだ試していないんだけれど、これが成功していたら、一日寝るだけで一週間眠り続けたのと同等なほど疲れが飛ぶのよ。睡眠制御薬の効力が二週間程度だと仮定した場合、安眠剤を試せるのは一週間後だけれど、それまでより良い安眠剤になれるように__」
「あの、もういい。わかった。すまん、デリケートなことを聞いてしまって。」
無表情で淡々と薬について話すむーに恐怖心が湧いたのか、くいは遠慮がちにむーの言葉を止めた。
その声にハッとなったのか、むーは咳払いをする。
「…ちゃんはちの状態についてはしぜいやから話は聞いているわ。もう下がっていいわよ。」
「いや、私はここにいる。」
「いやいいわよ。用意してある薬をかければいいだけだし。」
「それでも側にいさせてくれ。頼む。」
むーは、こんなに必死になってここにとどまるくいを不審そうな目で見つめるが、別にここにいて何か害があるわけではない。
薬品臭いこの部屋には毒物はない。逆に良い効果のある薬ばかりだ。
なので、むーはくいをつま先から目元までじろりと眺めたのち、
「わかったわ。」
と呟く。
正直、くい自身もなぜこんなにここに留まりたいかわからなかった。
__私の任務だった登山家の人は花韮に助けられたのか。いや、助けられた助けられなかった以前に花韮にお礼すら言っていない。それに、結果報告も中枢郷に届けなきゃいけない。
異変解決後もやることはある。こんなところで時間を潰している暇なんてないはずなのに。
それをわかっているのに。
なぜなのだろう。くいは、この場から離れるという選択肢が思いつかなかった。
「…。」
複雑な感情になりながらちゃんはちを見つめるくいを、むーもまた見つめる。
むーは人の感情も自身の感情にも疎い。というか関心がない。
だからか、くいがどうしてここに留まるのか理解ができない。
むーも花幻郷最強のグループ員だ。異変解決後もやるべきことがあることぐらい知っている。
けれど、今のくいにその現実を突きつけることはしなかった。
面倒くさいし自分には関係のないことだから、というのももちろんあるだろう。
しかし、くいと関わるのは"あの十六年"も含めると十七年目。
人としてのくいと関わるのはまだ一年というほんの少しの時間だが、それでも共有した時間は山のように積み重なっている。
くいの人柄ぐらい、人に関心のないむーには分かっていた。
__くいが、自身のやるべきことを放ってこんなに人に関わろうとすることが異常なことを。
「…少し水を持ってくるわ。」
「私のはいい。」
「わかったわ。言っておくけれど、薬品とかに触らないでちょうだいね。」
「承知している。」
むーはその言葉を聞きながら扉を開けた。
左側にある通路を渡り食堂へ移動し、食堂の中にあるキッチンへと足を進める。
そして、棚にある透明なコップを手に取って水道水を注ぐ。
むーは、コップに静かに溜まっていく水を眺めながら思う。
水。それは無色透明であり無味無臭の液体としてこの世界に存在している物質。
冷やせば固形となり氷というものに名を変え、熱せば沸騰して水蒸気へとなる。
水蒸気となった水は上空で冷やされて小さな水や氷のつぶになり、やがて大きく重くなって雨粒となって落ちてくる。
しかし、それは海があればの話である。
むーは、コップに溜まった液体をくるくると揺らし、ゆっくりと傾け、シンクに水を流した。
__煙花散花には海というものがない。
そのため、普通であればこの世界に雨が降ることはないだろう。
しかし、煙花散花には雨が降り、突風を巻き起こしたいわゆる台風というものもくる。
それは一体なぜなのか。
実は、煙花散花には、雲以上の空間にも神々が住う場所が存在する。
雲には花里星という春を司る神たちが住み、その上には天気界というものがあり、さらに上にはあらゆる神たちが住んでいる天界が存在する。
今回話したいことは、天気界について。
天気界では、天気の神であるテンペスタス・ウェザー・デアトン様と、その妻であるアウア・ウェザー・デアヘル様が共同して天気を操作しておられる。
そのおかげで、煙花散花には天気というものが存在しているのだ。
しかし、天気は神が操作している。
一ヶ月ほども雨が長続きすると、煙花散花にも影響がでる。それこそ土砂崩れや川の増水、人の生活など。
だから、神はすべての生物に影響が出ないよう雨の量や降る期間を調整しているのだ。
(…今は止んでいるけれど、つい先ほどまでの雨は、書物で見た情報と合致していない。まぁちゃんはちも異変と見て現にしずくという元凶が出たから異変なのは間違いなさそうね。…けれど、雨粒に魔力が込められたようになったのは三日前ほどから。ちゃんはち達は気づかなかっただけと考えているようだけれど…)
「は?お前なにしてんの?」
自分の世界に入っていたむーは、自分に降りかかった声にハッとする。
声の方向を見るまでもなく、声でその声の主がいかりであることは気づいた。
けれど、一応確認するべく、むーは後ろを振り返る。
思った通り、キッチンの入り口にはいかりがいた。
「…別に、なにもしていないわ。」
「ッチ。退け」
むーは、コップに水を入れ直してすぐにキッチンの入り口へと向かう。
いかりは、そんなむーの謎の行動に苛立ちを感じる。
「…コップに入ってた水をタラタラ捨ててたくせになんなんだよ。結局入れんのかよ。それなら最初からパッと入れてパッと帰れよカス」
そんな独り言を言いながら、いかりもまた、透明なコップを手に取った。
