嬉しい。
課長は上司であり、私のことをいの一番に認めてくれた人だ。
何度も私を助けてくれたし、課長には恩がある。
社内でも優秀な社員だと云われている課長に誘われれば、誰だってここでOKを出すことだろう。
でも、素直に『行きます』と言えない自分がいた。
居酒屋では、十二村部長に向かって『十二村部長の家にだって行きませんよ。』と言いつつも、キスを受けれ入れてしまったことを思い出す。
部長の言葉と行動が矛盾しているように、自分の言葉と行動も大概矛盾している。
「なんか顔、赤くない?」
「へ? そ、そんなことないですよ?」
「ごめん。家とか、完全に下心のある誘い方だよね。」
「え……。」
「でもね、本当に下心なんだよ。」
楢崎課長の瞳が真っ直ぐ私を見つめる。
課長が『下心』とはっきり言うなんて、何事だろう?
(あれ……? もしかして私、課長に女性として誘われてる?)
てっきり部下としてお誘いを受けているものだとばかり思っていた。
でも課長の眼差しは真剣そのもので、私の返答をじっと待っている。
何か言わないと。でもいきなりすぎて、何をどう伝えていいのやら。
緊張でどもりそうな声帯を、しっかりと開いて課長を見据える。
「あ、あの! 私、十二村部長の元婚約者だって、会社の人たちから敬遠されてるんです!」
「そうなの?」
「はい! それで、もし私が楢崎課長の家にお邪魔したら、きっと課長の悪い噂が回るんじゃないかなって。だから、楢崎課長の家に行くことは出来ません。」
はっきりと伝えられたと思う。
これは十二村部長が言っていたことだ。
私が十二村部長の元婚約者である以上、私とはこれ以上関係を持たないほうが、楢崎課長の身のため――
「それでもいいから来てほしいって言ったら、どうする?」
「え?」
楢崎課長が、私との間にある距離をゆっくりと詰める。
頭の中が真っ白になる。ファイルを持つ手が微かに震えた。
「大路さんが十二村の元婚約者だろうが、そんなの関係ないよ。僕は、僕が見てきた大路さんを誘っているだけなんだから。」
課長が首を傾げて、頭を揺らす。
茶色い綺麗な髪が一本一本落ちていく。
私の顔を覗き込む課長の声は、今まで聞いてきた柔らかいものではない。
1人の男性を窺わせる、低く響くような声だった。



