「楢崎の家に行くくらいなら、俺の家に来い。」
「え……な、なんで?」
「俺の元婚約者が楢崎の家に行ったなんて社内で知られてみろ。楢崎の不評が立つかもしれん。」
「……」
「例えば、楢崎とお前が元々浮気関係にあったとか、」
張り詰めていた糸がプツンと切れる。
気付けば自然に手が出ていた。
小路から通り沿いにまで響くほどの平手打ち。憤りが瞬時に沸点まで到達した。
せっかく吉香が私の代わりに怒ってくれたのに。
この男の無神経さは、一体どれほどの制裁を与えれば私の気が済むのか――。
「ふざけんな!! ふざけんなよ馬鹿っ! 嘘でしょ?! 私、こんな男と今まで婚約してたの?!!」
小路の電灯が一つ、チカチカと消え入いそうに点滅している音が聞こえる。
部長は私に叩かれた頬には気にも留めず、ただ突っ立ったまま私を見ていた。
「なんでっ……意味わかんない……! わたしがどれだけ今まで、今までずっとずっと、あんたのことを思って……」
悔しい。
ここまで憤りを感じるほど詩太さんを好きなことが。あまりにも自分の“好き”の比重が重すぎて。悔しすぎる。
涙がしきりに流れていく。
簡単には引っ込んではくれない。嗚咽すら漏らしてしまいそうな夜に、私の声が必死に喉を掠める。
「め、迷惑がかかるなら、課長の家には行きません。だから、十二村部長の家にだって行きませんよ。」
この人は私を婚約者としてではなく、都合の良いセフレにでもしておきたいのだろうか?
私にそんな器用な芸当はできない。私の心と体はいつだって一緒なのだから。
部長を横切ろうとすれば、当たり前のように私の腕を取る。
でもその手は弱々しくて、意味が分からず癇に障る。もう二度と引き留められないよう精一杯振り払った。



