「玄也さん、水をくれ。」
「あい! 少々お待ちを!」
この状況で水を頼む十二村部長の神経は、いかがなものなのだろう。
テーブルに乗せた吉香の拳が震え、今にも罵倒が飛びそうな勢いだ。
「十二村さん! 真面目に聞いてるんですか?!」
玄也さんも私たちの殺伐とした空気に気がついたのか、水のコップを置くなり、慌ててカウンターの奥へと帰っていく。
さすがの楢崎課長も、どうフォローすべきか悩んでいるらしい。十二村部長に小声で、「おい、さすがにまずいんじゃないか」と話かけている。
十二村部長が水の入ったコップを、目の前にいる私の前に置いた。
「いいぞ大路。好きにやれ。」
「は?」
「俺にそれだけ恨みがあるんだろ? それなら今この場でこの水を俺にかければいい。」
「なっ……」
場がしーんと静まり返り、吉香と楢崎課長が呆気にとられている。
この御曹司は急に何を言い出すのだろう? 発想が違和感だらけで、瞼が自然と瞬いた。
「いや、あの。頭おかしいんですか部長? 水かけるとか、やり方が古くないです?」
「……は?」
「私、部長に言いたいこと沢山言いましたから。それに最初っから恨んでなんていませんよ。」
恨んでいるとか、そんなんじゃない。
私が勝手に好きになっただけで。そのせいで、勝手に私が振り回されて辛い思いをしただけだ。
詩太さんだって、私が鬱陶しかったわけではなく、“婚約者”というもので縛られるのが嫌だっただけかもしれない。
それにバレンタインチョコを要求されただけで私は嬉しかったのだ。これまで渡せなかったチョコをようやく渡すことができるのだから。
もうそれ以上を求めては、ただの欲張りになってしまう。
十二村部長の前にコップを返し、吉香にも「ありがとう」とお礼を伝えておいた。
吉香は全ての経緯を知っている。沢山相談して助けてもらってきた。本当にお世話になりっぱなしで、こうして本人に直接怒ってくれるほどの親友がいることが誇りに思えた。
「十二村さん、未怜は許しても、私は許しませんからね?」
「ほう。これが『きっか』か。さすがだ大路のヒーローだな。」
「私はなんで何年も何年も未怜を放ったらかしにしてたのかって聞いているんです!」
「連絡先知らなかったからな。」
「それなら聞けばいいでしょ? 本当に信じられないわこの男っ。」
吉香の怒りはどうにも治まらないらしい。今にも、十二村部長の前にあるコップを手に取り、水をかけそうな勢いだ。
それでもやっぱり十二村部長は冷静で、ジャケットのポケットからスマホを取り出し、私に差し出してきた。



