2月25日。
午前7時30分。駅のホームは、鋭い刃物のような冬の空気に満ちていた。
相原航平は、凍える手で参考書を握りしめていた。英単語帳の角はボロボロに丸まり、付箋の山がこれまでの「戦いの跡」を物語っている。けれど、どれだけ詰め込んでも、頭の中のバケツには穴が開いているんじゃないかと思えるほど、自信がこぼれ落ちていく。
(もし、失敗したら。もし、あの一問が解けなかったら……)
心臓の鼓動が、ダウンジャケット越しに伝わるほど速い。隣に立つ人々がみんな自分より賢そうに見え、吐き出す息の白ささえ、自分だけが薄いような気がした。
――昨日の夜、母が言っていた言葉が、ふいに浮かぶ。
「体だけは冷やさないでね。結果はどうであれ、ここまで来た航平は、もう誇りだから」
父は多くを語らなかった。ただ、玄関で靴を履く航平の背中に、少し不器用に手を置いて、「行ってこい」と一言だけ言った。その重みが、今になって胸に沁みる。
高校最後のホームルームで、担任が黒板に大きく書いた言葉も思い出す。
『努力は、試験の席で君を裏切らない』
分かっている。分かっているはずなのに、不安は容赦なく胸を締めつけてくる。
「……あの、それ。去年の私と同じです」
不意に横から声をかけられ、航平は肩を震わせた。
隣に立っていたのは、紺色のコートを着た、大学生くらいの女性だった。彼女は穏やかに微笑みながら、航平の持っている参考書を指差した。
「その単語帳。私もボロボロになるまで使ってました。最後の方は、もはや紙の塊みたいになっちゃいますよね」
航平は戸惑いながらも、「あ……はい」と短く答えた。
彼女はカバンから、大学のロゴが入ったストラップのパスケースを取り出した。
「私は今、あそこの坂の上にある大学の2年生です。2年前の今日、私も今の君と同じ場所で、同じくらい震えてました。足の先まで冷えて、鉛筆を握る感覚もなくて。世界で自分だけが置いていかれるような、変な孤独感があって」
航平は驚いて彼女を見た。彼女の凛とした佇まいからは、そんな弱気な過去は想像もできなかった。
「でもね」
彼女は自販機の方へ歩き出し、戻ってくると、一本の缶コーヒーを航平の手に握らせた。
――温かい缶だった。
「大丈夫。今日まで君が積み上げてきたものは、君が思っているよりずっと、君の味方をしてくれるから」
缶の熱が、かじかんだ指先から、胸の奥へとゆっくり染み込んでいく。
「試験中、もし真っ白になったら、そのボロボロの参考書を思い出して。あれをやり遂げた自分を、誰よりも自分が信じてあげて」
一瞬、言葉に詰まったように笑って、彼女は続けた。
「大学で待ってるよ。春、このキャンパスで君に会えるのを楽しみにしてるから」
電車の入線音がホームに響く。
彼女は「頑張れ!」と小さく拳を握ってみせると、反対側のホームへと歩いていった。
航平は、温かい缶を両手で包み込んだ。
不思議と、さっきまでの震えは止まっていた。
電車に揺られ、試験会場に向かう。
問題用紙を開いた瞬間、胸が一度だけ強く鳴った。
――大丈夫だ。
分からない問題はあった。それでも、手は止まらなかった。
夜遅くまで机に向かった自分。眠気と戦いながら覚えた単語。先生の声。家族の背中。
そして、あの朝の、青いマフラーの彼女の声。
すべてが、今の自分の背中を押していた。
*
合格発表の日。
三月の風は、もう冬ほど冷たくなかった。
大学の掲示板の前で、航平は自分の受験番号を探していた。
指が、無意識に震える。
――あった。
一瞬、理解できなかった。
次の瞬間、これまで「大丈夫だよ」と言い続けてくれた家族の声が、全部まとめて胸に押し寄せてきて、視界が滲んだ。
「……あ、あった……」
声が、かすれていた。
スマートフォンを取り出し、母に電話をかける。
出た瞬間、言葉にならなかった。
『航平? どうだった?』
「……受かって、た」
一拍置いて、受話器の向こうで、嗚咽が漏れた。
父の「よくやったな」という低い声も聞こえる。
電話を切ったあと、航平は掲示板を見上げた。
ふと、あの日のホームを思い出す。
青いマフラー。
温かい缶コーヒー。
名前も知らない、けれど確かに背中を押してくれた人。
「春、会えるかな」
そう呟いて、航平は笑った。
カバンの中の参考書は、相変わらず重い。
けれどそれは、もう不安の重さではなかった。
未来へ進むために――確かに自分が積み上げてきた、誇りの重みだった。
午前7時30分。駅のホームは、鋭い刃物のような冬の空気に満ちていた。
相原航平は、凍える手で参考書を握りしめていた。英単語帳の角はボロボロに丸まり、付箋の山がこれまでの「戦いの跡」を物語っている。けれど、どれだけ詰め込んでも、頭の中のバケツには穴が開いているんじゃないかと思えるほど、自信がこぼれ落ちていく。
(もし、失敗したら。もし、あの一問が解けなかったら……)
心臓の鼓動が、ダウンジャケット越しに伝わるほど速い。隣に立つ人々がみんな自分より賢そうに見え、吐き出す息の白ささえ、自分だけが薄いような気がした。
――昨日の夜、母が言っていた言葉が、ふいに浮かぶ。
「体だけは冷やさないでね。結果はどうであれ、ここまで来た航平は、もう誇りだから」
父は多くを語らなかった。ただ、玄関で靴を履く航平の背中に、少し不器用に手を置いて、「行ってこい」と一言だけ言った。その重みが、今になって胸に沁みる。
高校最後のホームルームで、担任が黒板に大きく書いた言葉も思い出す。
『努力は、試験の席で君を裏切らない』
分かっている。分かっているはずなのに、不安は容赦なく胸を締めつけてくる。
「……あの、それ。去年の私と同じです」
不意に横から声をかけられ、航平は肩を震わせた。
隣に立っていたのは、紺色のコートを着た、大学生くらいの女性だった。彼女は穏やかに微笑みながら、航平の持っている参考書を指差した。
「その単語帳。私もボロボロになるまで使ってました。最後の方は、もはや紙の塊みたいになっちゃいますよね」
航平は戸惑いながらも、「あ……はい」と短く答えた。
彼女はカバンから、大学のロゴが入ったストラップのパスケースを取り出した。
「私は今、あそこの坂の上にある大学の2年生です。2年前の今日、私も今の君と同じ場所で、同じくらい震えてました。足の先まで冷えて、鉛筆を握る感覚もなくて。世界で自分だけが置いていかれるような、変な孤独感があって」
航平は驚いて彼女を見た。彼女の凛とした佇まいからは、そんな弱気な過去は想像もできなかった。
「でもね」
彼女は自販機の方へ歩き出し、戻ってくると、一本の缶コーヒーを航平の手に握らせた。
――温かい缶だった。
「大丈夫。今日まで君が積み上げてきたものは、君が思っているよりずっと、君の味方をしてくれるから」
缶の熱が、かじかんだ指先から、胸の奥へとゆっくり染み込んでいく。
「試験中、もし真っ白になったら、そのボロボロの参考書を思い出して。あれをやり遂げた自分を、誰よりも自分が信じてあげて」
一瞬、言葉に詰まったように笑って、彼女は続けた。
「大学で待ってるよ。春、このキャンパスで君に会えるのを楽しみにしてるから」
電車の入線音がホームに響く。
彼女は「頑張れ!」と小さく拳を握ってみせると、反対側のホームへと歩いていった。
航平は、温かい缶を両手で包み込んだ。
不思議と、さっきまでの震えは止まっていた。
電車に揺られ、試験会場に向かう。
問題用紙を開いた瞬間、胸が一度だけ強く鳴った。
――大丈夫だ。
分からない問題はあった。それでも、手は止まらなかった。
夜遅くまで机に向かった自分。眠気と戦いながら覚えた単語。先生の声。家族の背中。
そして、あの朝の、青いマフラーの彼女の声。
すべてが、今の自分の背中を押していた。
*
合格発表の日。
三月の風は、もう冬ほど冷たくなかった。
大学の掲示板の前で、航平は自分の受験番号を探していた。
指が、無意識に震える。
――あった。
一瞬、理解できなかった。
次の瞬間、これまで「大丈夫だよ」と言い続けてくれた家族の声が、全部まとめて胸に押し寄せてきて、視界が滲んだ。
「……あ、あった……」
声が、かすれていた。
スマートフォンを取り出し、母に電話をかける。
出た瞬間、言葉にならなかった。
『航平? どうだった?』
「……受かって、た」
一拍置いて、受話器の向こうで、嗚咽が漏れた。
父の「よくやったな」という低い声も聞こえる。
電話を切ったあと、航平は掲示板を見上げた。
ふと、あの日のホームを思い出す。
青いマフラー。
温かい缶コーヒー。
名前も知らない、けれど確かに背中を押してくれた人。
「春、会えるかな」
そう呟いて、航平は笑った。
カバンの中の参考書は、相変わらず重い。
けれどそれは、もう不安の重さではなかった。
未来へ進むために――確かに自分が積み上げてきた、誇りの重みだった。



