あの木の、むこう側

第一章 穴のある木

とある町の繁華街の一角に、一本の木が立っていた。
カフェや服屋、雑貨店が並ぶ、人通りの多い通りの途中だ。

街路樹というには唐突で、公園の名残というには不自然だった。
それでも誰も、足を止めて不思議がる様子はない。
人々は視線の端でそれを避けるように通り過ぎていく。

幹の中央に、ぽっかりと穴が開いている。
洞窟の入口のようにも、古い建物の通用口のようにも見えた。

看板はない。
説明書きもない。

それなのに、その木だけが、周囲から少し浮いて見えた。
音や光が、ほんのわずか遠回りしているような感覚。

この物語は、偶然その木の前を通りかかった私――鷹取遥香の体験記である。

第二章 面接帰りの午後

十一月も半ばを過ぎた昼下がり。
空気は冷え始めているが、吐く息はまだ白くならない。

東京都心の中小IT企業での採用面接は、あっけないほど早く終わった。

「では、以上です。本日はありがとうございました」

穏やかで、感情を含まない声だった。
否定も肯定もない、きれいな言葉。

質問は想定通りで、答えも準備していたはずなのに、
終わってみると、手応えのようなものは残っていなかった。

――また、うまく話せなかった。

遥香は、何かを「売り込む」ことが昔から苦手だった。
決められた課題をこなすことや、指示に従って動くことは嫌いではない。
けれど、自分の長所を言葉にしようとすると、考えが止まってしまう。

学生時代までは、それでも何とかなった。
誰かの後ろを歩いていれば、次の場所に連れて行ってもらえた。

けれど就職活動では、
進む方向も、理由も、自分で示さなければならない。

オフィスビルを出て駅へ向かう途中、
ガラスに映った自分の姿を見て、遥香は目を逸らした。

悪くはない。
でも、特別でもない。

それが、今の自分だった。

第三章 不採用通知

駅構内に入った瞬間、スマートフォンが震えた。
ポケットの中で、控えめだが確かな振動。

画面を見る前から、胸の奥が少しずつ固くなっていく。

件名は短く、丁寧だった。

採否結果のご案内。

本文を開くまでもなく、結末はわかっていた。
それでも最後まで読み、画面を閉じる。

今回のご縁は見送らせていただきます。

責める言葉はなく、否定もなかった。
それがかえって、遥香の胸に残った。

ホームのベンチに腰を下ろし、
しばらく立ち上がれずにいた。

――何が足りないんだろう。

問いは浮かぶが、答えは出ない。
怠けてきたわけでも、努力を放棄したわけでもない。
ただ、「選ばれる理由」をうまく示せなかっただけだ。

気分転換のつもりで途中下車し、
馴染みの本屋に立ち寄る。
背表紙を目で追いながら、時間だけが過ぎていった。

何も買わずに外へ出た、そのとき。

遥香は、街角に立つ一本の木に気づいた。

第四章 木の入口

ケーキ屋と靴屋に挟まれた、ほんの数メートルの空間に、一本の木が立っていた。

一週間前、この辺りは確かに更地だったはずなのに。

その木は、どう考えても場違いだった。
街路樹でも、公園の名残でもない。

人の話し声、信号音、店内から流れるBGM。
確かに聞こえているのに、木の周囲だけ、薄い膜で切り取られているようだった。

近づくにつれ、アスファルトの匂いが薄れ、湿った土と樹皮の匂いが、鼻先に届く。

葉は、十一月とは思えないほど瑞々しい。
指先で触れると、ひんやりとして、生きている感触があった。
幹は太く、長い時間を黙って立ち続けてきた重みがある。
幹の中央に、ひとつの穴。

洞窟の入口のようで、同時に、長い間言葉にされずにいた心の空洞を、そのまま形にしたようにも見えた。

ここを通り過ぎてしまえば、
何かを永遠に失う気がした。

理由はわからない。
でも、確信だけがあった。

私は、身を屈め、穴の縁に手を添えた。

ひやりとした感触。
木なのに、石のように静かだった。

次の瞬間、私は木の中へ足を踏み入れていた。

第五章 木の中の入口

足を踏み入れた瞬間、外の世界の気配が、音を立てずに途切れた。

短い暗闇。
けれど、それは「何も見えない」暗さではなかった。
まぶたを閉じた内側のような、
どこか柔らかい闇。

自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。
足元の感触が、あるのかないのか、曖昧になる。

前後も、上下も、自分が立っているのかどうかさえ、わからない。

――落ちているわけじゃない。
――でも、進んでいる感じもしない。

そう思った瞬間、
ふっと、光が差し込んだ。

白でも、黄色でもない。
昼と朝のあいだのような、
名前をつける前の光。

「いらっしゃいませ」

声は、遠くからでも、近くからでもなかった。
空間そのものが、そう言ったように聞こえた。

顔を上げると、三人の少女が並んで立っていた。

同じ制服のような服装。
淡い色合いで、装飾は少ない。

けれど、
立ち方も、
視線の置き方も、
空気のまとい方も、まるで違う。

一人は、包み込むように。
一人は、静かに寄り添うように。
一人は、無邪気に、まっすぐこちらを見ている。

「ここは、木の中の癒し屋さんです」

ポニーテールの少女が、やわらかく言った。
「店長のひばりと申します。どうぞ、ご無理なさらず」
理由は聞かれなかった。
説明も、求められなかった。
名刺も、契約も、質問票もない。

ただ――
「ここに居ていい」と、
静かに告げられた気がした。

第六章 癒し屋さんという場所

視線を巡らせると、空間は想像していたより、ずっと広かった。
中央には円形の吹き抜けがあり、その周囲を囲むように、回廊が幾重にも重なっている。

上を見上げても、
下を覗いても、
終わりがはっきりしない。

壁も床も天井も、すべて木。
節や年輪が、そのまま残っている。

それなのに、
閉じ込められている感じは、まったくなかった。

むしろ、深呼吸がしやすい。

「時間も、役割も、ここでは少し休んでいただきます」

ひばりさんの声は、説明というより、確認のようだった。

「休んで……?」

問い返そうとした時、ふと、違和感に気づく。

――肩が、軽い。

スーツの重さも、
背中に貼りついていた焦りも、
いつの間にか、薄れていた。

気づくと、
ひばりさんの姿は、どこにも見えなくなっていた。

探そう、という発想すら浮かばない。

代わりに、三つ編みの少女が、いつの間にか隣に立っている。

「案内人のつぐみです。こちらへ」

声は静かで、
必要な分だけ、そこにある。

――今は、この人だけでいい。
そう、最初から決まっていたかのように。

第七章 506号室

階段を上るたび、空気が少しずつ、澄んでいく。

五階の廊下は、深い森の奥に続く獣道のように静かだった。

足音が、木に吸い込まれていく。

「五〇六号室になります」

つぐみさんは、立ち止まって、そう告げた。

扉は、扉というより、大きな木の裂け目のようだった。

身をかがめて、穴をくぐる。

次の瞬間、柔らかな光に包まれる。

切り株のテーブル。
丸みを帯びた椅子。

床には積み木。
棚には、色あせた絵本。

どれも、「使い古されている」のに、大切にされている感じがした。

胸の奥が、きゅっと縮む。

懐かしい、というより、
忘れていたものに触れた感覚。

「上手にしなくていいんですよ」

つぐみさんは、そう言って、それ以上何も言わなかった。

作ることも、
完成させることも、
求められない。

ただ、ここに在ることだけが、許されていた。

第八章 遊ぶという行為

最初は、何をしていいのかわからなかった。

積み木を手に取る。
少し、重い。

重ねる。
ぐらつく。

崩れる。

思わず、肩がすくむ。

でも、
誰も見ていない。
誰も評価しない。

もう一度、積む。
また崩れる。

それだけ。

クレヨンを握る。
紙に、線を引く。

意味のない色。
形にならない模様。

――これで、いいの?

そう思った瞬間、
ふと、手が止まる。

「……私、これが好きだったんだ」

声に出した途端、涙が出そうになる。

いつからだろう。
役に立たないものを、
捨てるようになったのは。

「途中で、止まってもいいんですよ」

つぐみさんは、そう言った。

進めなくても、
完成しなくても、
失われないという保証だった。

第九章 森へ

部屋の奥にある、フランス窓。

そっと開けると、外には森が広がっていた。
裸足で、土を踏む。

冷たく、
柔らかく、
足裏に、確かな感触が伝わる。

湿った空気。
木の匂い。

鳥の声。
遠くで流れる、水のせせらぎ。

すべてが、
「今ここ」にある。

「何もしなくていい」

その言葉が、
初めて、本当だと思えた。

立ち止まっても、
座り込んでも、
意味があるとか、ないとか、
考えなくていい。

私は、しばらく、森の中で、ただ呼吸していた。

第十章 葉っぱのお布団

部屋へ戻ると、大きな葉に包まれた寝床があった。

幾重にも重なった葉は、
一枚一枚、違う色をしている。

「お布団です」

無邪気な少女――
くいなちゃんが、にこっと笑う。

葉に触れると、
ひんやりとして、
でも、芯から冷える感じはしない。

横になると、
身体が、先に理解してしまう。

――ここは、安全だ。

考えるより早く、
まぶたが重くなる。

――生きていて、よかった。

その言葉が、
胸の奥から、自然に浮かんだ。

第十一章 夢

夢の中で、私は小さくなっていた。

背が低く、
世界が、少し大きい。

森を走る。
転んでも、痛くない。

比べる必要も、
追い抜く必要もない。

誰かの背中を、
追わなくていい。

ただ、
生きている。

それだけで、
胸がいっぱいになる。

第十二章 目覚めと食事

目覚めると、
身体が驚くほど軽かった。

重力が、少し弱くなったみたいだ。

運ばれてきた料理は、湯気を立てていた。
派手ではない。
でも、温かい。
一口食べると、胸の奥まで、じんわりと広がる。

「生きるってね、それだけで十分なんだよ」

くいなちゃんは、眠る前のような声で、ぽつりと言った。

「ちゃんと、お腹がすいたら、思い出してね」

私は、その言葉を、胸にしまった。

終章 三年後

三年後、私は童話作家になっていた。

肩書きがついた今でも、
自分が「ちゃんとした大人」になったとは思えない。

けれど、
あの日、木の中で思い出した「童心」が、
確かに今の私を支えている。

ひばりさんの言葉。
つぐみさんの声。
くいなちゃんの感覚。

困った時、
今の自分に必要な一つだけが、
ふと、胸に浮かぶ。

あの木は、今もどこかに立っている。

疲れた誰かを、
今日もきっと、静かに迎えているだろう。
(おしまい)