優しい香りだった。

夜の店では、女の香りなんて嫌というほど浴びてきた。
甘すぎる香水も、きついアルコールの混ざった吐息も、
仕事だと割り切ればどうにでもなる。

それなのに。

ふとした瞬間、
俺は無意識に探している。

花の匂いと、
それとは違う、柔らかい甘さ。

彼女(志乃)の香り。

今日も騒がしい店内。
指名してくれる姫たちを立ち回り、笑わせ、癒やし、
グラスを満たし、言葉を添え、視線で絡め取る。

身体が覚えている。
どの角度で笑えばいいか。
どの距離で触れればいいか。

軽いボディータッチも、
肩に寄せられる体温も、
何も動じない。
反応しない。

なのに――

あの人を思い出すと、喉が渇く。

触れたい、なんて、
こんな衝動、仕事では一度もなかった。

グラスを持つ指先に、わずかな震え。

誤魔化すように笑って、
俺はまたReyを演じた。
早く帰りたい。



何も意識していなかったあの日、
どうしても、母のお粥が食べたかった。

朝から身体が重い。
大学へ行けなくはなかっただろうけど、
行ってもすぐに帰る未来が見えた。

講義と研究室に体調不良の連絡を入れる。

自分の部屋で寝ていれば済む話なのに、
なぜかその日は、実家に帰りたかった。

迎えに来た母は、少し驚いた顔をして笑った。

「麗、珍しいわね。それだけ頑張ってきたってことよ」

家に着いて薬を飲み、
布団に沈む。

身体が熱い。
頭がぼうっとする。

母の声が遠くなる。

「志乃ちゃん、あとで来ると思うから」

そこだけ、はっきり聞こえた。


目が覚めると、部屋の空気が少し変わっていた。

静かな足音。
額に、ひやりとした感触。

「熱、上がってる」

志乃の声だった。

薄く目を開けると、
逆光の中に彼女の輪郭がある。

近い。

夜の店で、どれだけ肌が触れても平気だった身体が、
今は情けないほど敏感だった。

志乃の指が、もう一度額に触れる。

冷たいはずなのに、
触れた場所だけ、熱が集まる。

息が浅くなる。

花の匂いと、洗剤の匂い。
それに混じる、彼女自身の体温。
騒がしい世界とは違う、静かな匂い。

「水、飲める?」

頷こうとして、腕が動く。

水を取りに行こうとしていた彼女。
気づけば、彼女の手首を掴んでいた。

強く掴むつもりなんてなかった。

ただ――

離れないでいて欲しかった。

「……麗くん?」

立ち上がろうとした志乃が、バランスを崩す。
布団に、二人で倒れ込む。

近すぎる。

呼吸が、触れる。

視線が絡まる。

喉が鳴る音が、自分でも聞こえた。

「…そばにいて」

掠れた声。
夜の俺じゃない。
ただの、麗の声。

一瞬、時が止まる。

血の気が引いた。

俺は、何をしている。
欲しいなんて、言ったことはなかった。

掴んでいた手を、ゆっくり離す。

「……ごめん」

額を押さえる。

「熱のせいだ」

嘘だ。

でも、今はそれでいい。

志乃は何も言わなかった。

ただ、少し乱れた呼吸を整えてから、
そっと距離を取る。

「ちゃんと治してね」

その一言だけ残して、
部屋を出ていった。

扉が閉まる音。

天井を見上げながら、
俺は知った。

これは、仕事じゃない。

何なんだろう。
ただ、あの静けさに戻りたいと思ったんだ。