店の照明が、いつもより眩しく感じた。
グラスに反射する光が、視界の端でちらつく。

名前を呼ばれ、笑顔を作る。
声の高さ、間の取り方、視線の角度。
考えなくても、身体が勝手に動く。

――Rey。

客の腕に、ほんの一瞬だけ指先が触れる。
それだけで、場の空気がほどける。
それが仕事で、それが俺の役割だった。

視線を感じた。
店の奥、壁にもたれて立つ彼女と目が合う。

無表情。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、値踏みするような目。

またか、と思った。
仕事場には来てほしくなかった。
それでも彼女は、軽く酒を飲むついでのように現れて、決まって俺を指名した。

接客を終えて戻ると、
彼女は短く息を吐いた。

「楽しそうだね、麗」

冗談みたいな声。
けれど、混じる温度が違う。

「仕事だよ」

即答だった。
それ以外、言葉が見つからなかった。

彼女は小さく笑う。

「それ、本当?
顔、ニヤけてたけど」

その一言で、胸の奥に細い亀裂が入った。

俺が積み上げてきた全部が、
“俺として在ること”から、少しずつ切り離されていく感覚。

彼女は言った。
「麗が好き」だと。
ホストとしてのReyじゃない、と。

――それは、正しかった。
正しすぎた。

彼女の目に映る俺が、
どちらなのか分からなくなっていた。

好きになることで、
守ってきた境界線が、静かに崩れていく。

――人を好きになるのは、危険だ。

その頃はまだ、
別れるなんて考えてもいなかった。

けれど、俺は壊れ始めていた。
彼女を、好きになりすぎたせいで。

酒に逃げて、立てないほど酔っていても、
姫の前では完璧に笑えた。

動いている口元が、
自分のものじゃないみたいだった。

「Rey君、大丈夫?」

誰の目にも、壊れているのが分かるくらい。

仕事終わり、店を出ると、
迅が外で煙草を吸っていた。

「辞めるなら、今だな」

前を向いたまま、そう言う。

「……辞めたら、楽になるかな」

自分でも驚くほど、弱い声だった。

迅は少し間を置いてから、言った。

「逃げても、麗は消えねぇけどな」

その名前で呼ばれた瞬間、
胸の奥に残っていた何かが、確かに動いた。

数日後、俺は実家に戻っていた。

母の花屋は、変わらない。
土と水の匂い。
整えられた花たちが、黙ってそこに在る。

「手伝ってくれる?」

母の声に、頷くだけで精一杯だった。

昼下がり、花を並べていると、
公園のベンチに座る女性が目に入った。

時間だけをやり過ごしているような横顔。

――志乃。

初めて見た日のことは、もう思い出せない。
気づいた時には、視界の端にいる人になっていた。

近づきすぎない。
踏み込んでこない。

なのに、
隣に立たれると、妙に体温を感じた。

夜の仕事で、距離の測り方は嫌というほど覚えたはずなのに。

志乃の前では、それがうまく機能しなかった。

壁を作る前に、
もう向こう側に立たれていた。


彼女は、何も聞いてこなかった。
俺が何者かも、
なぜここにいるのかも。

ただ花を選び、
必要な分だけ言葉を交わす。

ある日、ぽつりと口を開いた。

「……俺さ」

志乃は手を止めず、耳だけを向ける。

「人を好きになるの、怖くなった」

沈黙が落ちる。
でも、それは重くなかった。

志乃は花瓶の水を替えてから、静かに言った。

「それでも、逃げなかったんだね」

否定も、慰めもない。
ただ、事実を受け取る声。

その瞬間、分かった。

ここでは、Reyでいる必要はない。
でも、麗でいることも、否定されない。

夜、店に戻るかどうかを考えた。

辞めれば、楽にはなる。
仮面を被らずに済む。

でも――
仮面だと思っていたものも、
確かに自分だった。

Reyがいたから、
人と向き合うことを学んだ。

麗がいるから、
それを続ける意味を知った。

逃げる理由は、もうなかった。

辞めない。

そう決めたのは、
強くなれたからじゃない。

二つの自分を、
やっと同じ場所に立たせられたからだった。