家族という言葉は、いつも正確だった。
少なくとも、外から見れば。
私は二十歳で結婚した。
相手は十歳近く年上で、落ち着いていて、世間的には「いい人」だった。
だから誰も、私が息苦しさを覚えているなんて思わなかった。
姑はよく言った。
「若いから仕方ないわね」
「まだ分からないでしょうけど」
その言葉はいつも、柔らかい笑顔と一緒に投げられた。
優しさの形をして、確実に私を削っていく言葉だった。
夫は悪い人ではなかった。
むしろ、完璧な人だった。
話し合おうとするし、理屈も通っている。
感情的になる私を、冷静に諭すこともできた。
だからこそ、私の「苦しい」は、いつも感情論として片づけられた。
「考えすぎだよ」
「気にしすぎじゃないか」
仕事熱心の旦那はそのうちに、私の放つ言葉さえもない物のように扱い始めた。
無視。
空気のように、一緒にいるのかいないのか分からないくらい。
会話もなかった。
十年、耐えた。
「今日の味付けどうかな?」
毎度の食卓、返ってくるのはただの相槌。
会話、コミュニケーションを続けていたら、また昔みたいに戻れるかもしれない。
耐えれば家族になれると思っていた。
耐えることが、妻としての役目だと信じていた。
でもある日、朝起きて、身体が動かなかった。
泣きたいわけでも、怒りたいわけでもない。
ただ、これ以上ここにいたら、自分が消える気がした。
——もう無理。
その言葉は、口に出す前に、心の奥で決まっていた。
大きな喧嘩はなかった。
劇的な裏切りもない。
ただ、夫婦を終わらせて、私は家を出た。
人生に疲れていた。
人と関わることに、ひどく疲れていた。
行くあてもなく、夜の街をフラフラと歩いた。
知らない道、知らない匂い。
ネオンが消え、空が少しずつ白み始める。
朝だった。
足が止まったのは、たまたまだった。
疲れてたのもあるけれど、その場所に吸い付いたというのが正しいかもしれない。
通りがかった花屋の前。
まだ開店前なのに、店先には花が並んでいる。
誰のものでもないようで、ちゃんと居場所を与えられている花たち。
名前も、役割も、説明されなくても、そこに在るだけで美しかった。
——生きていていい。
理由なんてなくても。
花の匂いに包まれながら、私は久しぶりに深く息を吸った。
花屋の向かいには、小さな公園があった。
ベンチに腰を下ろし、ぼんやりと店の方を見ていた。
時間がゆっくり流れていく。
やがてシャッターが上がり、店の中が動き始めた。
優しそうな母親が、忙しなく水を汲んだバケツを運ぶ。
少し遅れて、背の高い青年が店に入ってくる。
麗だと、後から知ることになる。
「母さん、こっちは俺やるよ」
自然な動き。
誰かの役に立つことが、当たり前のような仕草。
小学生くらいの男の子が、その後ろを追って呼びかける。
「麗にぃ!」
その呼び方に、胸の奥が少しだけざわついた。
血のつながりだけではない、距離の近さ。
役割ではなく、関係としてそこにある家族。
花の香り。
店内の温もり。
母の優しさ。
そこにいる2人の無邪気な笑顔。
私は少し離れたベンチから、それを見ていた。
怒鳴り声も、正論も、試されるような言葉もない。
誰かが誰かを支配していない。
ただ、それぞれが、そこにいる。
——家族のかたちは、ひとつじゃない。
そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと緩んだ。
私は初めて、自分が何を失ったのかではなく、 何を知らずに生きてきたのかを思い知った。
耐えることでしか成立しない関係を、 家族だと信じ込もうとしていただけだったのかもしれない。
ベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
でも、不思議と苦しくはなかった。
ここに来てもいい。
立ち止まってもいい。
花屋の前で、私はようやく、 「終わった家族」ではなく 「これからの自分」を思い描けた気がした。
「この花下さい」
「はーい、お待ちください」
花屋の一日が始まった。 日常の一コマ。
私もその中に確かにいた。
少なくとも、外から見れば。
私は二十歳で結婚した。
相手は十歳近く年上で、落ち着いていて、世間的には「いい人」だった。
だから誰も、私が息苦しさを覚えているなんて思わなかった。
姑はよく言った。
「若いから仕方ないわね」
「まだ分からないでしょうけど」
その言葉はいつも、柔らかい笑顔と一緒に投げられた。
優しさの形をして、確実に私を削っていく言葉だった。
夫は悪い人ではなかった。
むしろ、完璧な人だった。
話し合おうとするし、理屈も通っている。
感情的になる私を、冷静に諭すこともできた。
だからこそ、私の「苦しい」は、いつも感情論として片づけられた。
「考えすぎだよ」
「気にしすぎじゃないか」
仕事熱心の旦那はそのうちに、私の放つ言葉さえもない物のように扱い始めた。
無視。
空気のように、一緒にいるのかいないのか分からないくらい。
会話もなかった。
十年、耐えた。
「今日の味付けどうかな?」
毎度の食卓、返ってくるのはただの相槌。
会話、コミュニケーションを続けていたら、また昔みたいに戻れるかもしれない。
耐えれば家族になれると思っていた。
耐えることが、妻としての役目だと信じていた。
でもある日、朝起きて、身体が動かなかった。
泣きたいわけでも、怒りたいわけでもない。
ただ、これ以上ここにいたら、自分が消える気がした。
——もう無理。
その言葉は、口に出す前に、心の奥で決まっていた。
大きな喧嘩はなかった。
劇的な裏切りもない。
ただ、夫婦を終わらせて、私は家を出た。
人生に疲れていた。
人と関わることに、ひどく疲れていた。
行くあてもなく、夜の街をフラフラと歩いた。
知らない道、知らない匂い。
ネオンが消え、空が少しずつ白み始める。
朝だった。
足が止まったのは、たまたまだった。
疲れてたのもあるけれど、その場所に吸い付いたというのが正しいかもしれない。
通りがかった花屋の前。
まだ開店前なのに、店先には花が並んでいる。
誰のものでもないようで、ちゃんと居場所を与えられている花たち。
名前も、役割も、説明されなくても、そこに在るだけで美しかった。
——生きていていい。
理由なんてなくても。
花の匂いに包まれながら、私は久しぶりに深く息を吸った。
花屋の向かいには、小さな公園があった。
ベンチに腰を下ろし、ぼんやりと店の方を見ていた。
時間がゆっくり流れていく。
やがてシャッターが上がり、店の中が動き始めた。
優しそうな母親が、忙しなく水を汲んだバケツを運ぶ。
少し遅れて、背の高い青年が店に入ってくる。
麗だと、後から知ることになる。
「母さん、こっちは俺やるよ」
自然な動き。
誰かの役に立つことが、当たり前のような仕草。
小学生くらいの男の子が、その後ろを追って呼びかける。
「麗にぃ!」
その呼び方に、胸の奥が少しだけざわついた。
血のつながりだけではない、距離の近さ。
役割ではなく、関係としてそこにある家族。
花の香り。
店内の温もり。
母の優しさ。
そこにいる2人の無邪気な笑顔。
私は少し離れたベンチから、それを見ていた。
怒鳴り声も、正論も、試されるような言葉もない。
誰かが誰かを支配していない。
ただ、それぞれが、そこにいる。
——家族のかたちは、ひとつじゃない。
そう思った瞬間、胸の奥がじんわりと緩んだ。
私は初めて、自分が何を失ったのかではなく、 何を知らずに生きてきたのかを思い知った。
耐えることでしか成立しない関係を、 家族だと信じ込もうとしていただけだったのかもしれない。
ベンチに座ったまま、しばらく動けなかった。
でも、不思議と苦しくはなかった。
ここに来てもいい。
立ち止まってもいい。
花屋の前で、私はようやく、 「終わった家族」ではなく 「これからの自分」を思い描けた気がした。
「この花下さい」
「はーい、お待ちください」
花屋の一日が始まった。 日常の一コマ。
私もその中に確かにいた。



