あの日から、麗くんは何も変わらない。

いつも通り、静かで、優しくて、少し不機嫌そうな顔。
けれど私は知っている。
あの瞬間の目。

「奪われたくない」と言わなかった目。



花の水を替えていると、後ろから声がする。

「重いだろ」

振り向くと、麗くんがバケツを持ち上げていた。

「ありがとう」

自然に笑う。

その距離は、きっと完璧だ。

近すぎない。
遠すぎない。

航太が店先でしゃがみ込んでいる。

「志乃ちゃん、これ縛れない」

「貸して?」

しゃがむと、少しだけ麗くんの視線を感じる。

結び終わって立ち上がると、
航太が嬉しそうに笑う。

「志乃ちゃん、将来ここで働けばいいのに」

「それいいね」

軽く返すと、

麗くんが、ほんの一瞬だけ黙った。

その沈黙を、私は拾わない。



閉店後、三人で夕飯を食べる。

航太が先に寝てしまい、
片付けをしていると、麗くんが皿を拭いていた。

「店長、お忙しそうだね。この前は、言伝わざわざ伝えにきてくれてありがとう」

そう言うと、彼は少し目を伏せる。

「別に」

ぶっきらぼう。

でも、距離は縮めない。

「麗くんは、ほんと頼りになるね」

にこっと笑う。

姉が弟に向けるような、
安心の笑い方で。

その一瞬、空気が止まる。

彼は何も言わない。

けれど、わかる。

これは線だ。

踏み込ませないための、優しさ。

私は知っている。

麗くんは優しい。

航太を大事にして、
お母さんを気遣って、
私にもきっと――

でも、それ以上にしてはいけない。

彼には未来がある。

私は、その途中に立つ人でいい。



「最近、大学どう?」

何気ない質問。

「普通」

短い返事。

けれど、その“普通”の奥に
何かが熱を持っているのを感じる。

触れない。

触れないほうがいい。

だから私は笑う。

「ちゃんと青春してね?」

軽い冗談。

少しだけ、距離を置く言葉。

麗くんは、笑わなかった。



帰り際、

「気をつけてね」

そう言うと、

彼は一瞬だけこちらを見る。

その目が、少しだけ揺れている。

でも、何も言わない。

何も変わらないふりをする。

その背中が、少しだけ固い。
拳が、ポケットの中で強く握られていた。

扉が閉まる。
静かな店内。

私は息を吐く。

優しくするのは、簡単だ。

甘やかすのも、できる。

でも、
踏み込まない。

それだけは、守る。

知らないふりをする。

それがきっと、正しい。

――そうしなければいけない、と。

けれど。

あの目が、少しだけ、怖かった。