萌えとネイル

昼休み。

教室は、いつも通り騒がしかった。
オタクくんは窓際最後列の席に座り、ライトノベルを開いていた。

ページをめくる。
文字を追う。
現実の音は、遠ざかっていく。

物語の中にいるときだけ、自分はこの世界の一部になれる気がした。

ギャル子は、まだ来ていない。

昼休みが始まってすぐに来る日もあれば、来ない日もある。
来るかどうかはわからない。

それでも、
少しだけ、
気にしている自分がいた。
そのときだった。

「うっわwwwそのストラップださーーwww」

大きな声が、教室の空気を裂いた。
顔を上げる。

陽キャ男が、ヤンキー女のスマートフォンを持っていた。
そこに付いている、小さなキャラクターのストラップ。

丸い目。派手な色。

幼児向けアニメのキャラクターだった。

「ちょ、やめろって、返せよ」

ヤンキー女が手を伸ばす。
でも、陽キャ男はそれを避ける。

「なにこれ。お前こういうの好きなの?」

周囲から笑い声が漏れる。
軽い笑い。
でも、確実に誰かを“外側”に置く笑いだった。

オタクくんは、その光景を見ていた。
胸の奥が、ざわつく。
理由はわかっている。
それは、自分も同じ側の人間だから。
好きなものを、笑われる側。
ラノベ。
アニメ。
萌え。
全部、同じ。
今まで何度も見てきた。
そして、そのたびに、
何も言わなかった。
言えなかった。

黙ることで、自分を守ってきた。
視線を本に戻す。
文字が、読めない。
ページが進まない。
頭の中に浮かぶのは、別の光景だった。

「今日は何読んでんの?」

ギャル子の声。

「面白い?」

否定しなかった人。
わからないと言いながらも、笑わなかった人。
胸の奥で、何かが揺れる。
陽キャ男は、まだ笑っている。
ヤンキー女は、困った顔をしている。

心臓が速くなる。
喉が、乾く。
言わなくていい。
関係ない。
黙っていればいい。
それが一番安全だ。
わかっている。

でも。
気づいたら、口が動いていた。

「あ……あの……」

自分の声が聞こえた瞬間、
教室の音が止まった。
視線が集まる。
逃げたい。
でも、止まらない。

「人の……好きなもの、否定するの……良くないと思います……」

声が震えている。
それでも続ける。

「好みは……人それぞれですし……」

静寂。

陽キャ男は、オタクくんを見た。
数秒。
そして。

「あー……はいはい。わりぃわりぃ」

興味を失ったように言う。
ストラップをヤンキー女に投げて返した。

「ほらよ」

それだけ言って、友達の方へ戻っていった。
終わった。
何かが変わったわけじゃない。
ただ、終わっただけ。

教室の空気が元に戻る。
ヤンキー女はストラップを拾い、
一瞬だけオタクくんを見た。
何も言わない。
すぐに視線を逸らした。
オタクくんは座った。
手が、震えている。
余計なことをした。
自分の立場を忘れていた。
本を開く。
でも、文字が頭に入ってこない。

そのとき。
教室の後ろのドアの外に、
ひとつの影があった。
ギャル子だった。
昼休みの途中で、ヤンキー女の様子を見に来たのだろう。

そして、
廊下から、
すべてを見ていた。
オタクくんが、
震えながら、
それでも声を出した瞬間を。
ギャル子は、小さく呟いた。

「ふーーん。やんじゃん。」

誰にも聞こえない声。
でもその瞬間、
ギャル子の中で、
オタクくんは、
ただの“オタクくん”じゃなくなっていた。