萌えとネイル

昼休みの教室は、いつも通り騒がしかった。

笑い声。机を引く音。誰かが床に落としたペンを拾う音。
それらはすべて、自分とは無関係な世界の音だった。

オタクくんは、その世界の外側にいる。
だから昼休みはいつも屋上に行く。
人のいない場所で、本を読む。
それが日常だった。

しかしその日、屋上に持っていったライトノベルを読み終えてしまった。
最後の一文を読み終え、本を閉じたとき、胸の奥に小さな喪失感が生まれる。


物語の終わりは、いつも少しだけ寂しい。


次の巻を取りに戻るため、オタクくんは教室へ向かった。
廊下を歩く。
扉の前で一度、呼吸を整える。
そして、開けた。

瞬間、違和感があった。
自分の席。
窓際、最後列。
そこに、見慣れない物が置かれている。
小さな瓶がいくつも並んでいた。
透明なもの、赤いもの、青いもの。
細い筆のようなものもある。
ネイル道具だ。

そして、自分の席の前の席には、知らない女子が座っていた。
いや、正確には“同じ学校の、知らない女子”。
髪は明るく、指先は光っている。
その女子は、右斜め前の席に座るヤンキー女の手を取って、何かを描いていた。

右利きだからか、ネイル道具はすべてオタクくんの机の上に置かれている。
自分の席なのに、自分の場所じゃないみたいだった。

オタクくんは、何も言わずに席に近づいた。
ネイル道具には触れないように、慎重に。
そして、引き出しを開ける。
次の巻を取り出すために。
そのとき。
「あーごめん。机借りてるねー」
声がした。
顔を上げると、ギャル子がこちらを見ていた。
初めて、目が合った。

「あ……」

何か言わなければならない気がした。
でも、言葉が出てこない。

「別にいいです……」

ようやく出たのは、それだけだった。
ギャル子は特に気にした様子もなく、またヤンキー女の手元に視線を戻した。

その瞬間。

オタクくんが引き出しから取り出したライトノベルが、ギャル子の目に入った。

「え!何このかわいい子!漫画?見せてー」

反応する間もなかった。
手から、本が消えた。

「あ……」

ギャル子は表紙を見ている。
しばらくして、本を開いた。
そして。

「え?全部文字じゃん!こんなの読んでおもろいの?」

悪意のない声だった。
純粋な疑問。

「ええ、まぁ……」

オタクくんは視線を落としたまま答える。
心臓がうるさい。
ギャル子はページをぱらぱらとめくり、そして本を閉じた。

「ふーん。ボクにはわからない世界だわ」

そう言って、本を返した。
オタクくんはそれを受け取り、机の上に置いた。
それで、会話は終わった。
それ以上、何も起きなかった。


でも。
何かが始まった気がした。