「感心感心、順調に飼い犬生活やっているみたいだなあ」
唐突な声。
途端に及び腰になったエイゼルを横に、凛子は太い声の主を見上げる。
がっちりとした体つきに、驚くほど長身の男だ。
恵まれた体躯に長剣を佩いた姿は、騎士というよりか戦士と言った方がしっくりくる。
茶色の目が面白そうにエイゼルと凛子を行き来した。
「な、なにされているんですか……」
「仕事」
別に俺が中央に顔出してもおかしくねえだろ。と、クァルツ支部の長を務めているレイモンは、飄々と続ける。
「で……ふうん? 休憩中に女連れか?」
好奇心を隠すこともせず凛子を注視する男に、エイゼルの足は自然と一歩前に出た。
「おいおい、紹介しろよ」
「えーっと……彼女は……リィンと言いまして……ちょっと言葉が……」
自分の名が二人の会話に出たことに気がついた凛子は首をやや傾げ、それから気がついたように頭を下げる。
「ナマエ、リィン」
辿々しい発音に何か思うところがあったらしく、巨躯の男はぽりぽりと頬を掻く。
「おおーーそうか。俺はレイモンだ。よろしくな?」
まるで幼子に接するように凛子の右腕をとりぶんぶん振った後、そのままの勢いで頭を撫でた。
巨大な手のひらに頭を掻き混ぜられた凛子は、ぽかんとした表情を返す。
そんな娘の様子にレイモンは一瞬だけ憐憫の色を瞳に浮かばせ、消した。
「あの……なにか、勘違いされているようですけど……彼女は異国からの客人です」
「そうなのか……? なんだ俺はてっきり……つーか共通語が通じない国ってどこだよ? 向こうの大陸か?」
「遠いところ、らしいです?」
「なんで疑問系なんだ」
「いや、俺も詳しいことよくわからないんです」
「まあいいか。じゃ王宮は当然初めてだろ。嬢ちゃん騎獣見たくないか? きじゅーうー」
「キジュ―?」
「こうやって乗るやつ」
ご丁寧に、パカパカと口に出しながら手振りを加える様子に、凛子は微笑む。
強面の男が繰り出すその動作は、なんとも可愛らしくて愛嬌がある。
「え、駄目ですよ! 俺が案内出来るの外宮のみなんですって!」
「別に遠乗り行くって訳じゃねえよ。ちっと厩舎に用事あるんでな。うちの騎獣なんて機密でもなんでもないだろ。結構いいの揃えているんだぜ。お国に帰って自慢してもらおうじゃねえの」
エイゼルに何かを話しかけ、不承不承といった様子で返される言葉に、レイモンが愉快そうに笑う。どういう関係なのかはよくわからない。ただ、レイモンの声音には親愛がこめられている気がする。自分は随分と無口になったものだ。と凛子は心の中で思う。
隔離結界の中に居る時以外、言葉は通じない。正確に言うと、努力をすれば通じるのだが、その必要が今は無かった。二人の会話を音楽に、歩を進め石段をおりる。
柔らかな大地の感触。芽吹いたばかりの緑の匂い。
騎士達の鍛錬の様子が、回廊の上からよりもよく見える。
掛け声。金属音。優しい風。
絵に描いたような、穏やかな王宮の午後の光景が広がっている。
陽光を受け、煌めく黄金色に目をひかれる。
その下にある青灰の瞳は、こちらを射抜くようにして向けられていた。
手を振りかけていた凛子は、動きを止める。
模擬刀を預けたシェイルが、大股で鍛錬所を横切ってくる。
「何をしているんだ」
奇妙な組み合わせの三人に平等に視線を配ったシェイルはレイモンに問うた。
「外宮の転送門が調子悪いらしく、騎獣を借りに来ました。夕刻までにはクァルツに戻らないといけないんで。クァルツからこっちへの転送門は問題無いから、騎獣は本日中にお戻ししますよ」
上司への礼をとりながら、レイモンは淀みなく答える。
「後ろの二人は」
「あーなんかお客さんらしいぞ。この坊主は賢者んところのだし、別に怪しくねえだろ?」
たちまち瓦解した部下の仮面をシェイルが非難する事は無い。が、思案するように顎に手をやる。
「たまたまそこで行き合って、折角だからうちの騎獣を披露しようと思ってな」
「あの……彼女の許可証はあります。ただ、外宮においてなので……問題があるようでしたら……」
お世辞にも友好的とは言えないシェイルの態度に、凛子は戸惑ったものの、視線に力を込めた。
あの週末と今。昨日から今日。何が違うと言われれば、何もかもが違うが、そういった目で見られる理由が特に思いつかなかった。
伝えたい事を伝えられないもどかしさ。
言葉にしなくても伝わる事はある。だがしかし、言葉にしないと伝わらない事もあるのも事実。
「いや……許可する。————良く見張っておけ」
エイゼルは、付け加えられた言葉の意味をはかりかねながら、是と頷いたのだった。
足早に立ち去ったシェイルの背を送り、レイモンはしみじみと口にした。
「うちの将軍様はまた今日もえらく機嫌悪そうだな。おまえ何かやらかしたのか」
「え、俺ですか? お話しした事さえ片手で数えられる程度ですって」
「じゃ、嬢ちゃんか? でも異国人だって言うしなあ、接点……」
空を仰いだレイモンは急に何かを思い出したように両手を打つ。そして人の悪そうな笑みを張り付かせると、囁いた。
「その娘、猊下が探していた娘だろ。異国風の顔立ち。二つの色持ち。乳白色の肌。お前がうちに保護しにきた娘」
「えっと……あー……」
「あん時、碌に顔も確認しなかったが、嬢ちゃんはその条件に当てはまるな。猊下のコレか?」
「いや、それは無いです!」
「ふうん? まー王族の近くに在る正体不明の娘に、将軍殿が注意をしていても特別妙な話ではないが。嬢ちゃん——リィン」
名を呼ばれて素直にこちらを向いた娘に、にかっと笑いかけると、微笑が返ってくる。
「そこ窪んでるから転ぶぞ」
言われた端から足元をとられ体制を崩した凛子は、太い腕に支えられた。
「わー!」
「間諜っぽくねえな。隙があり過ぎ、注意すべきところに注意がいっていない『すんげー驚いた。なんでここに穴ぼこが』って感情もだだ漏れ」
「彼女は紛う事なき一般人ですから!」
「みたいだな。お、ここだぞ。こいつらがうちの騎獣」
柵の向こうをレイモンが指し示す。
木製の屋根に覆われ、全面には壁面の無い建造物。干し草と藁、それから動物の体臭。
それらは凛子に、ロサ老人のところにあったベレーの厩舎を思い出させる。
それよりもかなり巨大で堅牢な造りをしているが。
柵の向こう側はかなり奥行きがあり、屋根の影が落ちていた。その暗がりに優美に体を丸めている獣が居る。
レイモンが懐から取り出した鈴のような物を鳴らすと、茶褐色の毛皮に埋められていた頭が擡げられた。
ゆっくりと身を起こした獣が前足を揃え身体を伸ばす。ネコ科の肉食獣に似ている気がする。けれど、その大きさは凛子の記憶の中にある虎よりもライオンよりもずっと大きい。
尻尾を揺らしながらこちらへとやってくる姿は王者の貫禄がある。陽の下に立った獣の瞳孔が縦長にすぼまった。
「こいつはジェイド種」
「近くで見ると大きいですね」
「そこまで持久力はないが、なんせ脚が速いからな。クァルツまでなら大丈夫だろ」
レイモンの言葉に、獣が不満げに鼻を鳴らす。
「ヴェゼー種は出払っちゃっているんですか?」
「お前好きなの? ああいうの」
「格好いいじゃないですか。飛行種は珍しいし市場でもほとんど見られない。閣下は先ほどあんな事言ってましたけど、軍の厩舎なんてなかなか来る機会ないですしね」
「これからは嫌でも見れるようになるんじゃねえの。なんといっても中央官吏だからなあエイゼル。よ、出世コース」
「中央官吏って……強調しないでください……」
留め金が外され、柵が開かれる。
進みでた獣が地に伏せる。
興味津々な顔つきで獣を見守っている凛子の身体を、レイモンはひょいと抱え上げた。
声を出す間もなく、凛子は騎乗の人となる。
獣が立ち上がり視界が一気に高くなった。レイモンを少しだけ見下ろす高さだ。そのまま動き始める獣に、凛子は慌てるが、レイモンは人の良さそうな笑みを浮かべているだけだ。
緊張しながらも、身体を支えるために獣の首もとあたりに手を添える。触れる毛並みは驚くほど柔らかい。しなやかな筋肉が上下する動きが伝わってくる。厩舎前の広場と鳴っている場所をぐるりと一周し、獣は再び腰を落とした。思いがけない体験に、感嘆の溜め息が出た。
厩舎前でレイモンと別れて戻ると、賢者の執務室にはディエルが待ち構えていた。
なんだか今日はいろいろある日だなあと、思いながら、凛子は給仕されたお茶を飲む。隔離結界外でも、どうにか物事を理解させようと伝える方法を探そうと努力してくれるエイゼルは、この部屋には入れないらしい。
ディエルに連れてこられたのは、叡智の塔からだいぶ奥まった場所に在るこじんまりとした建物だった。三方に大きな窓がとられ、春の日差しが惜しみなく室内へと降り注ぐ。向かい合って座しているのは、いかにも深窓の令嬢です。といった格好をした少女だ。あの夜、闇の中から姿を現した。
思えば、この少女が切っ掛けを作ってくれたお陰で、今の自分は、閉じ込められる事も無く歩けているのだ。不自由、けれども自由。
「アリガトウ」
何をとは伝えきれないが、そう頭を下げると、少女は翡翠の瞳を大きくさせ、それから花のように表情を綻ばせた。
「どうぞミリィと呼んでください!」
ミリィーーそれが少女の名前なのか。
「ミリィ、アリガトウ」
途端に、堰を切ったように少女が薔薇色の唇で音を紡ぎ始める。まるで小鳥の囀りのようだ。
余りの早口に、ひとつも理解出来る単語が無かったが。
ディエルは我関せずという顔で、しまいには部屋からも出て行ってしまい、空間に二人だけどなってしまった。沈黙を埋めるため、菓子を口に運んでは「オいシい」お茶を飲んでは「オいシい」を繰り返していた凛子は、腹が満たされ過ぎ、迫りくる睡魔を気合いで追いやる。
結局、互いに困惑したように顔を見合わせ、笑い声を落とす。
会話の無い茶会はそろそろ終わりの時間を迎えそうだった。
「アンジェですわ。別に女性に渡したって問題ありませんわよね。良い匂い!」
去り際に渡された花束を、グラスを花瓶代わりにして生ける。
室内にささやかに広がる香り。
昨晩、シェイルがくれた一輪の花と同じ香りだ。
きっとこの世界にも、誰かに送る花の意味があるのだろう。
けれど、きっとそれを知る必要は無い。
言葉をこれ以上覚える必要が無いように。
唐突な声。
途端に及び腰になったエイゼルを横に、凛子は太い声の主を見上げる。
がっちりとした体つきに、驚くほど長身の男だ。
恵まれた体躯に長剣を佩いた姿は、騎士というよりか戦士と言った方がしっくりくる。
茶色の目が面白そうにエイゼルと凛子を行き来した。
「な、なにされているんですか……」
「仕事」
別に俺が中央に顔出してもおかしくねえだろ。と、クァルツ支部の長を務めているレイモンは、飄々と続ける。
「で……ふうん? 休憩中に女連れか?」
好奇心を隠すこともせず凛子を注視する男に、エイゼルの足は自然と一歩前に出た。
「おいおい、紹介しろよ」
「えーっと……彼女は……リィンと言いまして……ちょっと言葉が……」
自分の名が二人の会話に出たことに気がついた凛子は首をやや傾げ、それから気がついたように頭を下げる。
「ナマエ、リィン」
辿々しい発音に何か思うところがあったらしく、巨躯の男はぽりぽりと頬を掻く。
「おおーーそうか。俺はレイモンだ。よろしくな?」
まるで幼子に接するように凛子の右腕をとりぶんぶん振った後、そのままの勢いで頭を撫でた。
巨大な手のひらに頭を掻き混ぜられた凛子は、ぽかんとした表情を返す。
そんな娘の様子にレイモンは一瞬だけ憐憫の色を瞳に浮かばせ、消した。
「あの……なにか、勘違いされているようですけど……彼女は異国からの客人です」
「そうなのか……? なんだ俺はてっきり……つーか共通語が通じない国ってどこだよ? 向こうの大陸か?」
「遠いところ、らしいです?」
「なんで疑問系なんだ」
「いや、俺も詳しいことよくわからないんです」
「まあいいか。じゃ王宮は当然初めてだろ。嬢ちゃん騎獣見たくないか? きじゅーうー」
「キジュ―?」
「こうやって乗るやつ」
ご丁寧に、パカパカと口に出しながら手振りを加える様子に、凛子は微笑む。
強面の男が繰り出すその動作は、なんとも可愛らしくて愛嬌がある。
「え、駄目ですよ! 俺が案内出来るの外宮のみなんですって!」
「別に遠乗り行くって訳じゃねえよ。ちっと厩舎に用事あるんでな。うちの騎獣なんて機密でもなんでもないだろ。結構いいの揃えているんだぜ。お国に帰って自慢してもらおうじゃねえの」
エイゼルに何かを話しかけ、不承不承といった様子で返される言葉に、レイモンが愉快そうに笑う。どういう関係なのかはよくわからない。ただ、レイモンの声音には親愛がこめられている気がする。自分は随分と無口になったものだ。と凛子は心の中で思う。
隔離結界の中に居る時以外、言葉は通じない。正確に言うと、努力をすれば通じるのだが、その必要が今は無かった。二人の会話を音楽に、歩を進め石段をおりる。
柔らかな大地の感触。芽吹いたばかりの緑の匂い。
騎士達の鍛錬の様子が、回廊の上からよりもよく見える。
掛け声。金属音。優しい風。
絵に描いたような、穏やかな王宮の午後の光景が広がっている。
陽光を受け、煌めく黄金色に目をひかれる。
その下にある青灰の瞳は、こちらを射抜くようにして向けられていた。
手を振りかけていた凛子は、動きを止める。
模擬刀を預けたシェイルが、大股で鍛錬所を横切ってくる。
「何をしているんだ」
奇妙な組み合わせの三人に平等に視線を配ったシェイルはレイモンに問うた。
「外宮の転送門が調子悪いらしく、騎獣を借りに来ました。夕刻までにはクァルツに戻らないといけないんで。クァルツからこっちへの転送門は問題無いから、騎獣は本日中にお戻ししますよ」
上司への礼をとりながら、レイモンは淀みなく答える。
「後ろの二人は」
「あーなんかお客さんらしいぞ。この坊主は賢者んところのだし、別に怪しくねえだろ?」
たちまち瓦解した部下の仮面をシェイルが非難する事は無い。が、思案するように顎に手をやる。
「たまたまそこで行き合って、折角だからうちの騎獣を披露しようと思ってな」
「あの……彼女の許可証はあります。ただ、外宮においてなので……問題があるようでしたら……」
お世辞にも友好的とは言えないシェイルの態度に、凛子は戸惑ったものの、視線に力を込めた。
あの週末と今。昨日から今日。何が違うと言われれば、何もかもが違うが、そういった目で見られる理由が特に思いつかなかった。
伝えたい事を伝えられないもどかしさ。
言葉にしなくても伝わる事はある。だがしかし、言葉にしないと伝わらない事もあるのも事実。
「いや……許可する。————良く見張っておけ」
エイゼルは、付け加えられた言葉の意味をはかりかねながら、是と頷いたのだった。
足早に立ち去ったシェイルの背を送り、レイモンはしみじみと口にした。
「うちの将軍様はまた今日もえらく機嫌悪そうだな。おまえ何かやらかしたのか」
「え、俺ですか? お話しした事さえ片手で数えられる程度ですって」
「じゃ、嬢ちゃんか? でも異国人だって言うしなあ、接点……」
空を仰いだレイモンは急に何かを思い出したように両手を打つ。そして人の悪そうな笑みを張り付かせると、囁いた。
「その娘、猊下が探していた娘だろ。異国風の顔立ち。二つの色持ち。乳白色の肌。お前がうちに保護しにきた娘」
「えっと……あー……」
「あん時、碌に顔も確認しなかったが、嬢ちゃんはその条件に当てはまるな。猊下のコレか?」
「いや、それは無いです!」
「ふうん? まー王族の近くに在る正体不明の娘に、将軍殿が注意をしていても特別妙な話ではないが。嬢ちゃん——リィン」
名を呼ばれて素直にこちらを向いた娘に、にかっと笑いかけると、微笑が返ってくる。
「そこ窪んでるから転ぶぞ」
言われた端から足元をとられ体制を崩した凛子は、太い腕に支えられた。
「わー!」
「間諜っぽくねえな。隙があり過ぎ、注意すべきところに注意がいっていない『すんげー驚いた。なんでここに穴ぼこが』って感情もだだ漏れ」
「彼女は紛う事なき一般人ですから!」
「みたいだな。お、ここだぞ。こいつらがうちの騎獣」
柵の向こうをレイモンが指し示す。
木製の屋根に覆われ、全面には壁面の無い建造物。干し草と藁、それから動物の体臭。
それらは凛子に、ロサ老人のところにあったベレーの厩舎を思い出させる。
それよりもかなり巨大で堅牢な造りをしているが。
柵の向こう側はかなり奥行きがあり、屋根の影が落ちていた。その暗がりに優美に体を丸めている獣が居る。
レイモンが懐から取り出した鈴のような物を鳴らすと、茶褐色の毛皮に埋められていた頭が擡げられた。
ゆっくりと身を起こした獣が前足を揃え身体を伸ばす。ネコ科の肉食獣に似ている気がする。けれど、その大きさは凛子の記憶の中にある虎よりもライオンよりもずっと大きい。
尻尾を揺らしながらこちらへとやってくる姿は王者の貫禄がある。陽の下に立った獣の瞳孔が縦長にすぼまった。
「こいつはジェイド種」
「近くで見ると大きいですね」
「そこまで持久力はないが、なんせ脚が速いからな。クァルツまでなら大丈夫だろ」
レイモンの言葉に、獣が不満げに鼻を鳴らす。
「ヴェゼー種は出払っちゃっているんですか?」
「お前好きなの? ああいうの」
「格好いいじゃないですか。飛行種は珍しいし市場でもほとんど見られない。閣下は先ほどあんな事言ってましたけど、軍の厩舎なんてなかなか来る機会ないですしね」
「これからは嫌でも見れるようになるんじゃねえの。なんといっても中央官吏だからなあエイゼル。よ、出世コース」
「中央官吏って……強調しないでください……」
留め金が外され、柵が開かれる。
進みでた獣が地に伏せる。
興味津々な顔つきで獣を見守っている凛子の身体を、レイモンはひょいと抱え上げた。
声を出す間もなく、凛子は騎乗の人となる。
獣が立ち上がり視界が一気に高くなった。レイモンを少しだけ見下ろす高さだ。そのまま動き始める獣に、凛子は慌てるが、レイモンは人の良さそうな笑みを浮かべているだけだ。
緊張しながらも、身体を支えるために獣の首もとあたりに手を添える。触れる毛並みは驚くほど柔らかい。しなやかな筋肉が上下する動きが伝わってくる。厩舎前の広場と鳴っている場所をぐるりと一周し、獣は再び腰を落とした。思いがけない体験に、感嘆の溜め息が出た。
厩舎前でレイモンと別れて戻ると、賢者の執務室にはディエルが待ち構えていた。
なんだか今日はいろいろある日だなあと、思いながら、凛子は給仕されたお茶を飲む。隔離結界外でも、どうにか物事を理解させようと伝える方法を探そうと努力してくれるエイゼルは、この部屋には入れないらしい。
ディエルに連れてこられたのは、叡智の塔からだいぶ奥まった場所に在るこじんまりとした建物だった。三方に大きな窓がとられ、春の日差しが惜しみなく室内へと降り注ぐ。向かい合って座しているのは、いかにも深窓の令嬢です。といった格好をした少女だ。あの夜、闇の中から姿を現した。
思えば、この少女が切っ掛けを作ってくれたお陰で、今の自分は、閉じ込められる事も無く歩けているのだ。不自由、けれども自由。
「アリガトウ」
何をとは伝えきれないが、そう頭を下げると、少女は翡翠の瞳を大きくさせ、それから花のように表情を綻ばせた。
「どうぞミリィと呼んでください!」
ミリィーーそれが少女の名前なのか。
「ミリィ、アリガトウ」
途端に、堰を切ったように少女が薔薇色の唇で音を紡ぎ始める。まるで小鳥の囀りのようだ。
余りの早口に、ひとつも理解出来る単語が無かったが。
ディエルは我関せずという顔で、しまいには部屋からも出て行ってしまい、空間に二人だけどなってしまった。沈黙を埋めるため、菓子を口に運んでは「オいシい」お茶を飲んでは「オいシい」を繰り返していた凛子は、腹が満たされ過ぎ、迫りくる睡魔を気合いで追いやる。
結局、互いに困惑したように顔を見合わせ、笑い声を落とす。
会話の無い茶会はそろそろ終わりの時間を迎えそうだった。
「アンジェですわ。別に女性に渡したって問題ありませんわよね。良い匂い!」
去り際に渡された花束を、グラスを花瓶代わりにして生ける。
室内にささやかに広がる香り。
昨晩、シェイルがくれた一輪の花と同じ香りだ。
きっとこの世界にも、誰かに送る花の意味があるのだろう。
けれど、きっとそれを知る必要は無い。
言葉をこれ以上覚える必要が無いように。

