月が青く染まる夜に

片桐さんはブラックのトートバッグを席に置くなり、すぐさま道路交通設備課へ直行した。
それも、とある人物めがけて。

「迅和、午後イチの受電盤、絶縁抵抗値のデータ持ってる?」

思わず、コピー機の向こうを伺うように振り返ってしまった。


ベテランコピー機に阻まれて、迅和くんの背中はまったく見えない。

「あるよ。片桐、先月分も見る?」

えっ、名前、呼び捨て?しかも、迷いがない。
なんなら、敬語じゃない。
それが当たり前みたいな距離感だった。

今まで彼女が出入りしているのは幾度となく見てきた。
だけど、迅和くんとここまで親しげに話していることに気づきもしなかった。


私はその会話を、コピー機越しに聞いている。

聞きながら、これは仕事だ、ただの仕事、と自分を落ち着かせる。

片桐さんは必要な時にしか来ない人だ。
毎日いるわけじゃない。

でも、だからこそ。来ると、空気が少し変わる。


「えーっと…総務部の……、佐藤さん?」

いつの間に来たのか、片桐さんは私のところへ移動してきていた。
慌てて「はい」と向き直る。

「今回の年次点検、停電時間は最短でいけそうです。事前に各部署へ通知お願いします」

「はい、分かりました」

私には、きちんと敬語。
線を引いている感じがした。

じゃあどうして迅和くんのことは、名前で呼ぶのだろうか。しかもその響きは、少し柔らかい。

私はパソコンに向かい、仕事に集中しよう、となるべく深いことは考えないようにした。


迅和くんとの私的な連絡は、お正月のあの一往復だけ。
特別なことは何もない。


────ただの外部の人なのに、協力会社ってだけなのに、自然に名前を呼ぶ。
必要なときだけ現れて、核心に触れていく。
片桐さんの存在が、静かに引っかかる。

私は総務。調整役。
感情を挟む余地なんて、ないはずなのに。

キーボードを打つ指が、少しだけ強くなる。
桜華テックが来る日は、だいたい何かが動く日。

その動きの真ん中に、巻き込まれようとしている気がした。