月が青く染まる夜に

反射的に、彼のコートの裾を握る。
名前を呼ぼうとしたのに、白い息が漏れた。

身長差のせいで、目の前にはボディバッグ。揺れる信号機のキーホルダー。

痛いわけじゃない。嫌なわけでもない。
でも、なにかを掴んでないと、立っていられなかった。

数秒の“耳かじり”は、私の頭では整理しきれなかった。


顔を離したあと、彼はぺろりと自分の唇を舐めた。
私の目を見たまま、わずかに口角を上げた。


「紗菜さんの耳は、もなかではなさそうです」


彼の視線から、目を逸らせなかった。
逸らしたら負ける気がしたのに、何も言えないまま、ただ立ち尽くす。

鼓動だけが、やけに大きく冬の夜に響いている気がした。

思考が、白く弾けた。
音も温度も一瞬で遠ざかる。
月も、信号も、冬も、全部どうでもよくなる。
ただ、耳の奥だけが、熱を持ったまま残った。

こんな距離も、こんな触れ方も、知らないわけじゃない。
それでも、ここまで心を奪われたことはなかった。


キスよりも、ずっと乱暴で、ずっと甘い。

余裕がなさすぎる私との対比が、生々しく浮き上がった。
あちらこちらで点滅する信号機の光が私たちを照らす。

夜空の三日月、赤と青の光、そして彼の視線。
すべてが、私たちだけの世界に溶けていた。


先に歩き出したのは、彼の方だった。
何事もなかったみたいな背中。

「寒いので、帰りましょうか」

その声は、いつも通りで、さっきの熱が嘘みたいに落ち着いている。

私だけが、置いていかれたみたいだった。


三日月は、相変わらずかじられた形のまま、夜に浮かんでいた。