月が青く染まる夜に

持ち主は、私の中ではずっと「背景の一部」のような人だった。
部署は分かるものの、年齢も、勤続年数も、どんな人なのか、実のところよく知らない。

飲み会ではいつも隅に座り、青信号に紛れる歩行者みたいに静かに場をやり過ごしている。

ただこの日から、彼は私の頭の片隅に小さく点灯した。

“信号機のキーホルダーをつけている面白い人”

それだけのラベル。
けれど、そのラベルは思ったよりも剥がれなかった。



広い事務所の一角で、背中を丸めてパソコンに向かう彼を、気づけば目で追っていた。
猫背の影が机に落ちて、書類の白に溶けていく。


私は二十八歳で、もう「なんとなく」で許される新人でもない。
見積書を仕上げ、電話を取り、会議の準備を整える側だ。

年上なのか年下なのかすら、直接確かめたことはないけれど、彼が使う敬語の記憶だけが淡く残っている。


そんな彼の背中をなんとなく眺めていたら、時計が正午を指した。

先輩たちの声が事務所に広がった。

「迅和(ときわ)くん、お昼行かない?」

声をかけられた彼はゆっくりと体を起こし、目にかかりそうな前髪を指で払いながら黒いリュックから財布を取り出す。
長めの髪は、耳にも少しかかっていた。

中肉中背。どこにでもいる、普通の男の人。

立ち上がる動作に、ほんの一瞬だけ肩の線が浮かんだ。
集団に紛れて出ていく背中を見送りながら、私は自分のデスクに置かれたパソコンに目を戻す。

画面には、途中までの見積書。

キーボードを打つ指先のリズムが、なぜか横断歩道の信号音に似ている気がした。
赤から青へ変わる、そのあいだの一拍。
私はまだ青を押さずに、ただ待っている。


あのキーホルダー、どこで売ってるんだろう。
そんなくだらないことを考えて、いきなり質問を投げかけたらどんな顔をするのかな、なんてちょっぴり興味が沸いてしまった。