電車は、ゆっくりと速度を落とした。
ブレーキの擦れる音が、いつもより長く感じる。窓の外には、見慣れない景色が広がっていた。高い建物も、商業施設もない。ただ、灰色の建物が規則正しく並んでいる。
聞き慣れない駅名が、無機質なアナウンスで流れる。
抑揚のない声。
感情の欠けた音。
扉が開いた瞬間、車内の空気が変わった気がした。
暖房の効いた車内から、一歩外へ出る。
冷たい。けれど冬の冷たさとは違う。もっと乾いていて、匂いがない。
その駅で降りたのは、数人だけだった。緋依も、その中にいた。
誰とも目を合わせないまま、まっすぐ歩いていく。その歩幅は一定で、迷いがない。
人の流れに紛れながら、距離を保つ。
尾行なんて初めてだった。足音が大きく聞こえる気がして、無意識に呼吸を浅くする。
彼女はまるで、後ろに誰もいないと信じ切っているみたいに歩いていた。
それが、逆に怖かった。
⸻
駅の外に出る。静かすぎる。風の音すら遠い。
コンビニも、カフェもない。自動販売機すら見当たらない。住宅街でもない。オフィス街というほどの賑わいもない。
ただ、広い道路と、似たような色の建物が、等間隔に並んでいる。
灰色。白。薄い青。
どれも、自己主張をしない色。人はいるのに、生活感がない。
(……仕事?)
違和感が、じわじわと膨らんでいく。
けれど、緋依は迷わなかった。曲がり角でも立ち止まらない。スマホも見ない。地図も確認しない。まるで、何度も通ったことがあるみたいに。
いや、身体が覚えているみたいに。
⸻
やがて、一つの建物の前で足を止めた。高さは低くて、横に長い。
窓が少なく、簡素な作りの四角い建物だ。外壁は白いが、真新しさはない。無機質で、目的の見えない箱。
看板らしいものは、見当たらない。
入り口の横に、小さなプレートがあるだけだった。金属製の、薄い板。
近づけば読める距離のはずなのに、なぜか足が進まない。急に立ち止まると、緋依は、バッグからカードのようなものを取り出し、扉の横にかざした。
──電子音。
乾いた、短い音。それだけで、扉が開いた。自動ドアではない。重そうな扉が、静かにスライドする。
中は、白い光で満たされていた。
病院のような、研究施設のような、感情を排除した光。
中に入る直前、彼女は一瞬だけ立ち止まった。本当に、一瞬。肩が、わずかに揺れる。何かを迷うように。
それから、覚悟を決めたみたいに、前を向く。
扉は静かに閉まり、外からは中の様子が一切見えなくなった。
(……なんだ、あれ)
胸の奥で、嫌な予感が形を持ち始める。
会社でもない。店でもない。少なくとも、普通の「職場」には見えない。
浮気?密会?
いや、違う。
そんな生々しい匂いがしない。むしろ、もっと冷たい。もっと人工的で、もっと"人間の気配が薄い"。
⸻
しばらくして、同じ扉から別の人が出てきた。
スーツ姿の男。
無表情で、こちらを見ることもなく通り過ぎる。視線が、合わない。焦点が、どこか遠い。
その後も、数人出てきた。
全員に共通していたのは、表情の薄さだった。
笑っていない。怒ってもいない。
ただ、感情を置いてきたみたいな顔。
それに、誰一人として私服の人はいない。全員が、同じ色合いの服。似た歩き方。似た姿勢。
(……何の建物なんだ)
看板の文字を、改めて見ようと一歩踏み出す。でも、途中で足が止まった。
──入れる気がしなかった。
理由は分からない。ただ、本能が言っている。
今は、入るな。
あれは、"知らなくていい場所"だと。
⸻
しばらくして、緋依が出て来た。白衣ではなく、行きと同じ私服。表情は、いつもと変わらない。
でも、どこか疲れているようにも見えた。
目の奥が、少しだけ暗い。
僕は反射的に身を隠す。心臓がうるさい。
彼女はスマホを取り出し、画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
通知が来たわけでもなさそうだ。
ただ、画面を見つめている。
やがて、深く息を吐く。小さく、震えるような息。
それから、来た時と同じ電車に乗って、帰っていった。
その背中を見送りながら、確信する。
『あの場所は、彼女の「仕事」じゃない。』
そして、僕に言えない理由が、そこにある。
⸻
家に戻ったあとも、頭から離れなかった。
カードキーに無機質な建物。
笑わない人たち。迷いのない足取り。
あの一瞬の立ち止まり。
家に帰って僕はパソコンを開き、駅名を入力する。
そして、あの建物の住所を調べる。建物の外観を検索する。でも、何も出てこない。
会社名も、施設名も、口コミも、地図情報も。まるで、最初から存在しないみたいに。航空写真には、確かに建物はある。
でも、名前がない。
(……消されてる?)
背中に、冷たいものが走る。
ただの浮気なら、こんな場所に行く必要はない。
ただの秘密なら、ここまで隠す必要もない。
⸻
その夜。
緋依は、いつも通りに「おやすみ」と言った。
僕も、いつも通りに返した。
部屋の明かりが消える。暗闇の中で、彼女の寝息が聞こえる。その寝息は一定で、穏やかで、安心できるはずの音。
でも、その隣にいるのに、彼女が、とても遠く感じる。同じベッドなのに、まるで違う世界にいるみたいだった。
目を閉じても、あの建物の白い扉が浮かぶ。
電子音が、何度も鳴る。乾いた音。冷たい音。
よし、決めた。
次に、彼女があそこへ行くときは、
絶対、中に入ってやる。
何があっても。
たとえ、"後戻り"できなくなっても。
ブレーキの擦れる音が、いつもより長く感じる。窓の外には、見慣れない景色が広がっていた。高い建物も、商業施設もない。ただ、灰色の建物が規則正しく並んでいる。
聞き慣れない駅名が、無機質なアナウンスで流れる。
抑揚のない声。
感情の欠けた音。
扉が開いた瞬間、車内の空気が変わった気がした。
暖房の効いた車内から、一歩外へ出る。
冷たい。けれど冬の冷たさとは違う。もっと乾いていて、匂いがない。
その駅で降りたのは、数人だけだった。緋依も、その中にいた。
誰とも目を合わせないまま、まっすぐ歩いていく。その歩幅は一定で、迷いがない。
人の流れに紛れながら、距離を保つ。
尾行なんて初めてだった。足音が大きく聞こえる気がして、無意識に呼吸を浅くする。
彼女はまるで、後ろに誰もいないと信じ切っているみたいに歩いていた。
それが、逆に怖かった。
⸻
駅の外に出る。静かすぎる。風の音すら遠い。
コンビニも、カフェもない。自動販売機すら見当たらない。住宅街でもない。オフィス街というほどの賑わいもない。
ただ、広い道路と、似たような色の建物が、等間隔に並んでいる。
灰色。白。薄い青。
どれも、自己主張をしない色。人はいるのに、生活感がない。
(……仕事?)
違和感が、じわじわと膨らんでいく。
けれど、緋依は迷わなかった。曲がり角でも立ち止まらない。スマホも見ない。地図も確認しない。まるで、何度も通ったことがあるみたいに。
いや、身体が覚えているみたいに。
⸻
やがて、一つの建物の前で足を止めた。高さは低くて、横に長い。
窓が少なく、簡素な作りの四角い建物だ。外壁は白いが、真新しさはない。無機質で、目的の見えない箱。
看板らしいものは、見当たらない。
入り口の横に、小さなプレートがあるだけだった。金属製の、薄い板。
近づけば読める距離のはずなのに、なぜか足が進まない。急に立ち止まると、緋依は、バッグからカードのようなものを取り出し、扉の横にかざした。
──電子音。
乾いた、短い音。それだけで、扉が開いた。自動ドアではない。重そうな扉が、静かにスライドする。
中は、白い光で満たされていた。
病院のような、研究施設のような、感情を排除した光。
中に入る直前、彼女は一瞬だけ立ち止まった。本当に、一瞬。肩が、わずかに揺れる。何かを迷うように。
それから、覚悟を決めたみたいに、前を向く。
扉は静かに閉まり、外からは中の様子が一切見えなくなった。
(……なんだ、あれ)
胸の奥で、嫌な予感が形を持ち始める。
会社でもない。店でもない。少なくとも、普通の「職場」には見えない。
浮気?密会?
いや、違う。
そんな生々しい匂いがしない。むしろ、もっと冷たい。もっと人工的で、もっと"人間の気配が薄い"。
⸻
しばらくして、同じ扉から別の人が出てきた。
スーツ姿の男。
無表情で、こちらを見ることもなく通り過ぎる。視線が、合わない。焦点が、どこか遠い。
その後も、数人出てきた。
全員に共通していたのは、表情の薄さだった。
笑っていない。怒ってもいない。
ただ、感情を置いてきたみたいな顔。
それに、誰一人として私服の人はいない。全員が、同じ色合いの服。似た歩き方。似た姿勢。
(……何の建物なんだ)
看板の文字を、改めて見ようと一歩踏み出す。でも、途中で足が止まった。
──入れる気がしなかった。
理由は分からない。ただ、本能が言っている。
今は、入るな。
あれは、"知らなくていい場所"だと。
⸻
しばらくして、緋依が出て来た。白衣ではなく、行きと同じ私服。表情は、いつもと変わらない。
でも、どこか疲れているようにも見えた。
目の奥が、少しだけ暗い。
僕は反射的に身を隠す。心臓がうるさい。
彼女はスマホを取り出し、画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
通知が来たわけでもなさそうだ。
ただ、画面を見つめている。
やがて、深く息を吐く。小さく、震えるような息。
それから、来た時と同じ電車に乗って、帰っていった。
その背中を見送りながら、確信する。
『あの場所は、彼女の「仕事」じゃない。』
そして、僕に言えない理由が、そこにある。
⸻
家に戻ったあとも、頭から離れなかった。
カードキーに無機質な建物。
笑わない人たち。迷いのない足取り。
あの一瞬の立ち止まり。
家に帰って僕はパソコンを開き、駅名を入力する。
そして、あの建物の住所を調べる。建物の外観を検索する。でも、何も出てこない。
会社名も、施設名も、口コミも、地図情報も。まるで、最初から存在しないみたいに。航空写真には、確かに建物はある。
でも、名前がない。
(……消されてる?)
背中に、冷たいものが走る。
ただの浮気なら、こんな場所に行く必要はない。
ただの秘密なら、ここまで隠す必要もない。
⸻
その夜。
緋依は、いつも通りに「おやすみ」と言った。
僕も、いつも通りに返した。
部屋の明かりが消える。暗闇の中で、彼女の寝息が聞こえる。その寝息は一定で、穏やかで、安心できるはずの音。
でも、その隣にいるのに、彼女が、とても遠く感じる。同じベッドなのに、まるで違う世界にいるみたいだった。
目を閉じても、あの建物の白い扉が浮かぶ。
電子音が、何度も鳴る。乾いた音。冷たい音。
よし、決めた。
次に、彼女があそこへ行くときは、
絶対、中に入ってやる。
何があっても。
たとえ、"後戻り"できなくなっても。
