このページは、観察ではありません。
研究所に提出する記録でもありません。
症状も、進行度も、分析も書きません。
これは、私の言葉です。
あなたへ。
たぶん、あなたが読むことはない。
読んでも、きっと分からない。
文字の意味は追えても、そこにある時間は、あなたの中に残っていない。
それでも、書きます。
残っていないあなたに向けて。
残ってしまった私から。
あなたは、星を描くのが下手でした。
角のひとつがいつも少し歪んで、
最後の線だけが、ほんの少し長かった。
「バランス悪いな」って自分で笑って、
でも描き直さなかった。
私が好きだと言うから、
毎回、少し歪な星を描いてくれました。
五日目、あなたは四角を描きました。
迷いのない、きれいな四角。
あのとき、
ああ、忘れちゃったんだ、って思いました。
胸の奥が、静かに冷えました。
泣きそうになりました。
でも笑いました。
あなたが誇らしげだったから。
「上手くない?」って、子どもみたいに言うから。
あなたのその顔まで、失いたくなかった。
三日目。
歯ブラシの動かし方が分からなくなって、
鏡の前で立ち止まった夜。
後ろから一緒に手を動かした。
あなたの肩越しに映る、私たち。
私はそのとき、初めて、
「これが最後かもしれない」
と思いました。
最後の"普通"かもしれないと。
でもあなたは、
「介護されてるみたいだな」って笑いました。
ちゃんと、冗談を言いました。
忘れながらも、
ちゃんと生きていました。
ちゃんと息をして、
ちゃんと食べて、
ちゃんと、私を心配してくれました。
たとえ理由が分からなくても。
二十一日目。
あなたは私に、
「どなたですか」と言いました。
あの瞬間、世界が終わる音がしました。
大きな音じゃない。
ガラスが、細かくひび割れるみたいな、静かな音。
本当は、怖い。あなたがゼロになった瞬間、私の中でも何かが終わりました。
あなたと共有していた時間が、私ひとりのものになった。
二人で持っていた思い出が、急に、片手では抱えきれない荷物になった。
重くて、痛くて、少しだけ、ずるい。
あなたは軽くなったのに、私だけが、全部持っている。
でもね。忘れていいよ。
あなたが忘れても、
それは消えたことにはならない。
私が覚えているから。
あなたが星を描いてくれたことも、
万年筆を宝物みたいに両手で包んだことも、
自分の名前を誇らしげに書いたことも。
目玉焼きを半分くれた朝も。
「大丈夫?」って、最後まで言ってくれたことも。
全部。
何回でも教える。
何回でも話す。
何回でも、最初から出会う。
あなたが初めて私を見る目で、
また好きになってくれるなら、
私は何度でも名乗る。
何度でも、隣に座る。
これは観察じゃない。
データでもない。
研究でもない。
恋です。
二度目の、恋。
いいえ。
きっと、三度目も、四度目もある。
あなたは、
私が何度でも恋をする人です。
それだけは、
ゼロになっても、本当。
たとえあなたが覚えていなくても、
私は今日も、あなたを選びます。
⸻
ページの下半分が大きく滲んでいる。
インクが波打ち、「好き」の文字が少し崩れている。
右端が強く握られ、深いしわになっている。乾いた跡の上に、また新しい滲みが重なっている。
その下に、小さく追記。
⸻
二十二日目。
観察終了。
研究所に提出する記録でもありません。
症状も、進行度も、分析も書きません。
これは、私の言葉です。
あなたへ。
たぶん、あなたが読むことはない。
読んでも、きっと分からない。
文字の意味は追えても、そこにある時間は、あなたの中に残っていない。
それでも、書きます。
残っていないあなたに向けて。
残ってしまった私から。
あなたは、星を描くのが下手でした。
角のひとつがいつも少し歪んで、
最後の線だけが、ほんの少し長かった。
「バランス悪いな」って自分で笑って、
でも描き直さなかった。
私が好きだと言うから、
毎回、少し歪な星を描いてくれました。
五日目、あなたは四角を描きました。
迷いのない、きれいな四角。
あのとき、
ああ、忘れちゃったんだ、って思いました。
胸の奥が、静かに冷えました。
泣きそうになりました。
でも笑いました。
あなたが誇らしげだったから。
「上手くない?」って、子どもみたいに言うから。
あなたのその顔まで、失いたくなかった。
三日目。
歯ブラシの動かし方が分からなくなって、
鏡の前で立ち止まった夜。
後ろから一緒に手を動かした。
あなたの肩越しに映る、私たち。
私はそのとき、初めて、
「これが最後かもしれない」
と思いました。
最後の"普通"かもしれないと。
でもあなたは、
「介護されてるみたいだな」って笑いました。
ちゃんと、冗談を言いました。
忘れながらも、
ちゃんと生きていました。
ちゃんと息をして、
ちゃんと食べて、
ちゃんと、私を心配してくれました。
たとえ理由が分からなくても。
二十一日目。
あなたは私に、
「どなたですか」と言いました。
あの瞬間、世界が終わる音がしました。
大きな音じゃない。
ガラスが、細かくひび割れるみたいな、静かな音。
本当は、怖い。あなたがゼロになった瞬間、私の中でも何かが終わりました。
あなたと共有していた時間が、私ひとりのものになった。
二人で持っていた思い出が、急に、片手では抱えきれない荷物になった。
重くて、痛くて、少しだけ、ずるい。
あなたは軽くなったのに、私だけが、全部持っている。
でもね。忘れていいよ。
あなたが忘れても、
それは消えたことにはならない。
私が覚えているから。
あなたが星を描いてくれたことも、
万年筆を宝物みたいに両手で包んだことも、
自分の名前を誇らしげに書いたことも。
目玉焼きを半分くれた朝も。
「大丈夫?」って、最後まで言ってくれたことも。
全部。
何回でも教える。
何回でも話す。
何回でも、最初から出会う。
あなたが初めて私を見る目で、
また好きになってくれるなら、
私は何度でも名乗る。
何度でも、隣に座る。
これは観察じゃない。
データでもない。
研究でもない。
恋です。
二度目の、恋。
いいえ。
きっと、三度目も、四度目もある。
あなたは、
私が何度でも恋をする人です。
それだけは、
ゼロになっても、本当。
たとえあなたが覚えていなくても、
私は今日も、あなたを選びます。
⸻
ページの下半分が大きく滲んでいる。
インクが波打ち、「好き」の文字が少し崩れている。
右端が強く握られ、深いしわになっている。乾いた跡の上に、また新しい滲みが重なっている。
その下に、小さく追記。
⸻
二十二日目。
観察終了。
