君はまだ、本当の自分を知らない

二日目

 朝、目が覚めると、キッチンから油の弾ける音がした。行ってみると、拓真が目玉焼きを作っている。

「起きた?」

 いつもと同じ声。でも、フライ返しを持ったまま少し止まる。

「あれ、俺っていつもどうやって返してたっけ」

 笑いながら、何度も持ち直す。黄身が崩れた。

「まあいっか」

 そう言って、崩れたほうを自分の皿に置いた。食べながら、昨日話した研究室の話を、最初から同じ順番で話す。
 
私は黙って聞く。

「あれ、これ昨日も言った?」

「うん」

「そっか。最近ちょっと抜けるんだよな」

 そう言って額を指で叩いたあと、少しだけ真面目な顔になる。

「でもさ」

 私の皿に目玉焼きを半分のせる。

「もし俺がボケても、半分こは忘れないと思う」

 冗談みたいに笑う。

 忘れるくせに。


二日目。
短期記憶の混濁。
同日の出来事の重複。
しかし情動共有は保たれている。


ノートの文字はまだ整っている。

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三日目

 講義のあと、図書館へ行く。
 ペンを握った瞬間、指が止まる。

「なんか違和感あるんだよな」

 何度も持ち替える。
 親指の位置を確かめるみたいに。

 夕飯。箸を持って、また止まる。

「俺ってこんな持ち方だったっけ」

 軽い声。
 でも、箸先が震えている。

 夜。

 歯ブラシをくわえたまま、鏡の前で止まる。

「次、どうすんだっけ」

 私は後ろから腕を伸ばして、一緒に動かした。

 彼は笑った。

「介護されてるみたいだな」

 私は笑えなかった。


三日目。
身体動作の欠損開始。
ただし羞恥心は残存。


ページの左下が強く折れている。

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五日目

 オムライスを作る。卵を焼きながら、手が少し震える。

「今日は僕が書いてあげる」

 珍しく、拓真がケチャップを持った。

 少し考える顔。ゆっくりと動かす。

 出来上がったのは、四角。

 きれいで、均等で、迷いのない四角。

 前、拓真は星を描くとき、必ず一本だけ線を歪ませた。
「完璧すぎると面白くない」って笑っていた。

 今日は、完璧な四角。

「どう? 上手くない?」

 誇らしげな顔。

 私は頷く。

 ねえ、星は?

 私が好きだって言ったから、
 毎回真ん中に描いてくれていた星は。


五日目。
共有習慣の欠落。
象徴記憶の消失。


ページ中央が大きく滲んでいる。

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七日目

 引き出しから万年筆を取り出す。

「これ、なんて名前のペンだっけ?」

 軽い声。

 あの日は違った。箱を開けた瞬間、

「一生使う」

 そう言った。

「お前の字、ちゃんと残すから」

 残す、って言った人が、今、その名前を思い出せない。

「私があげたやつだよ」

「あ、そうだっけ。ありがと」

 ありがとう、って。

 前は、抱きしめるみたいに握ったのに。


七日目。
感情付随記憶の低下。


インクが少しかすれている。

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九日目

 ノートに自分の名前を書いていた。

 一画目を書いて、止まる。

「……あれ」

「俺の名前ってさ」

 笑う。

 私は横に書く。

『拓真』

 彼はそれをなぞる。まるで、初めて知るみたいに。

「これだ」

 嬉しそうに笑う。知らない子どもみたいな顔。

 私は泣きそうになる。


九日目。
自己同一性の揺らぎ。


筆圧が異様に強い。

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十一日目

 テレビを見ている時。

「緋奈?」

 違う。もう一度呼ばせる。

 正しく言えたあと、少しだけ眉を寄せる。

「なんか、変だな」

 変なのは、世界だ。


十一日目。
近親記憶の崩壊開始。


ここだけ、日付が少し斜め。

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十三日目

「水取って」

「……分かりました」

 自然な敬語。

「なんか変だな」

 と笑う。

 目の奥が、少し遠い。


十三日目。
敬語出現。
距離の発生。


文字が小さくなる。

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十五日目

「……おはようございます」

 冗談じゃない。

「僕、今日大学ありますか?」

 自分の予定が曖昧だ。

 私を見て、

「すみません」

 何に対してか分からないまま謝る。

 それでも。

 夜、眠る前。

「……緋依」

 正しく呼んでくれた。

「大丈夫?」

 私は頷く。

 彼は少し笑って、眠った。

 翌朝、その記憶はなかった。


十五日目。
敬語定着。
自己記憶の崩壊進行。
情動反射、断続的に残存。


ここだけ文字がにじんでいる。

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十七日目

 鏡の前で立ち尽くしている。五分間、何も言わなかった。

「……僕は、誰ですか」

 振り向く。

「教えてください」

「拓真」

「……ありがとうございます」

 そして、少しだけ眉を寄せる。

「でも、あなたを見ると、安心します」

 理由は分からない、と言う。

 それで充分だった。

 記憶は消えても、
 何かが、残っている。


十七日目。
自己認識ほぼ消失。
情動残像あり。


ページの端が波打っている。

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二十日目

「どちら様ですか」

 静かな声。責める色も、困惑もない。ただ、本当に知らない。私は答えられない。

 恋人?観察者?加害者?

「泣いていますが、大丈夫ですか」

 優しい声。初対面の人に向ける、あの優しさ。

「……大丈夫」

 嘘。でも、彼は微笑む。

「それなら、よかったです」

 その微笑みは、昔と同じだった。

 私を知らなくても。


二十日目。
私に関する記憶、完全消失。
ただし対人共感性は保持。


最後のページ。

私は書く。

二十日目。
私の名前は出なかった。でも、「大丈夫ですか」と心配してくれた。

それで、充分だと思ってしまった。