「ずずずず……。」
石鹸水をすする音が、静かな夜に小さく響いた。
男は街の片隅で、石鹸水の乗ったスプーンに口を付ける。
石鹸水の匂いがツンと鼻を刺し、舌には泡が広がる。
彼は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
ぷくぷくぷくぷく。
口から出てきたいくつかのシャボン玉は、ふわりと浮かび、街灯の光を受けて虹色に輝いた後、音もなく消えた。
男の名は、誰も知らない。彼自身も忘れてしまっていた。
必要のないものは捨て、記憶さえも手放した彼は、ただ彷徨う存在だった。
食べる必要のない体は、いつからかそうだった。
空腹も、喉の渇きも、疲れさえも感じない。
石鹸水を飲むことだけが、彼の唯一の「行為」だった。
彼は古びたコートをまとい、裸足とさほど変わらないような擦り切れた靴で歩く。
街から街へ、路地から路地へ。
とことこぷくぷく。
どこへ行くあてもなく、ただシャボン玉を吹きながら彷徨う。
シャボン玉は、彼の吐息そのものだった。
誕生してはすぐに消える。儚い。
それでも彼は吹き続けた。
なぜ吹き続けるのか、それは彼自身にもわからなかった。
ある夜、彼は川沿いの小さな街にたどり着いた。
川面には月が映り、静かな水音が耳に響く。
街は眠りについていて、人の気配はなかった。
川辺のベンチに腰掛ける。
溝に溜まった石鹸水を見つける。
まだ洗濯物の匂いが残っているそれをすくい、口に含む。
ぷくぷくぷくぷく。
シャボン玉がいくつも夜空に舞った。
「ねえ、おじさん。何してるの?」
誰もいないはずの背後から声がした。
振り返ると、ぼさぼさの髪をした少女が立っていた。十歳くらいだろうか。
汚れたワンピースを着ていて、足に目をやると何も履いていなかった。
少女は好奇心に満ちた目で彼を見つめている。
「シャボン玉を吹いているだけだ。」
そう答えた声は、久しく使っていなかったせいか、かすれていた。
「へえ、へんなの。お腹は空かないの?」
彼は首を横に振った。
「食べなくていいんだ。石鹸水があれば、それでいい。」
少女は目を丸くした。
「うそ! 人間なのに? 魔法使いなの?」
「魔法じゃない。ただ、そういう体なんだ。」
少女はベンチに飛び乗り、彼の隣に座った。
「あたし、ハナ。お家、ないんだ。ママとパパもいない。おじさんは?」
彼は少し考えてから答えた。
「名前はない。家もない。」
「ふーん。似た者同士じゃん!」
ハナは笑った。
無邪気なその笑顔に、彼は一瞬、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。
だが、すぐにそれは消えた。
ぷくぷくぷくぷく。
再びシャボン玉を吹く。
ハナはそれをじっと見つめた。
「きれいだね。すぐ消えちゃうけど。なんで吹くの? なんか意味あるの?」
彼は答えられなかった。ただ吹く、それだけだ。
ハナは膝を抱えて続けた。
「あたし、いつも思うんだ。なんで生きてるんだろって。誰もいなくて、お腹空いて、寒くてさ。でも、なんか、生きちゃうんだよね。」
ぷくぷくぷくぷく。
彼は黙ってシャボン玉を吹いた。
虹色の泡が月の光を反射して、ハナの顔を照らす。
彼女の目はどこか遠くを見ているようだった。
「ねえ、おじさん。あたしもシャボン玉、吹いてみたい。」
彼はスプーンを差し出した。
ハナは少しためらったが、溝の石鹸水をすくって口に含んだ。
顔をしかめながらも、そっと息を吐く。
小さなシャボン玉が一つ、ふわりと浮かんだ。
「やった! できた!」
ハナは手を叩いて喜んだ。
その笑顔は、シャボン玉よりももっと儚く、もっと輝いていた。
それから数日、彼とハナは一緒に街を彷徨った。
ハナは彼にくっついて歩き、シャボン玉を吹いては、笑った。
彼は、初めて誰かと過ごす時間が悪くないと感じた。
ハナは彼にいろいろな話をした。
かつての家のこと、母親の歌声、父親の大きな手。
どれも、ハナにとっては遠い記憶だった。
ある朝、ハナが言った。
「おじさん、なんで生きてると思う?」
彼は答えられなかった。生きる理由など考えたこともなかった。
ハナは続けた。
「あたし、シャボン玉を見て思ったの。すぐ消えちゃうけど、きれいだなって。それでいいのかなって。生きるのって、シャボン玉みたいなものなのかも。」
その言葉は、彼の心のどこかに刺さった。
シャボン玉のように、儚く、意味もなく、ただそこにある。それでいいのかもしれない。
だが、その夜、ハナは姿を消した。
どこへ行ったのか、なぜ去ったのか、彼にはわからなかった。
ただ、小さな布切れが川辺に落ちていた。
彼はそれを拾い、胸にしまった。
彼はまた一人で歩き始めた。石鹸水をすすり、シャボン玉を吹きながら。
シャボン玉には、時折、ハナの笑顔が映ったように見えた。
儚く、消える。
でも、その一瞬の輝きは、彼の心に残った。
街から街へ、路地から路地へ。彼は彷徨い続ける。
シャボン玉を吹きながら。生きる理由など知らぬまま。
シャボン玉は虹色に輝き、夜空に舞う。
その一瞬が、彼のすべてだった。
石鹸水をすする音が、静かな夜に小さく響いた。
男は街の片隅で、石鹸水の乗ったスプーンに口を付ける。
石鹸水の匂いがツンと鼻を刺し、舌には泡が広がる。
彼は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
ぷくぷくぷくぷく。
口から出てきたいくつかのシャボン玉は、ふわりと浮かび、街灯の光を受けて虹色に輝いた後、音もなく消えた。
男の名は、誰も知らない。彼自身も忘れてしまっていた。
必要のないものは捨て、記憶さえも手放した彼は、ただ彷徨う存在だった。
食べる必要のない体は、いつからかそうだった。
空腹も、喉の渇きも、疲れさえも感じない。
石鹸水を飲むことだけが、彼の唯一の「行為」だった。
彼は古びたコートをまとい、裸足とさほど変わらないような擦り切れた靴で歩く。
街から街へ、路地から路地へ。
とことこぷくぷく。
どこへ行くあてもなく、ただシャボン玉を吹きながら彷徨う。
シャボン玉は、彼の吐息そのものだった。
誕生してはすぐに消える。儚い。
それでも彼は吹き続けた。
なぜ吹き続けるのか、それは彼自身にもわからなかった。
ある夜、彼は川沿いの小さな街にたどり着いた。
川面には月が映り、静かな水音が耳に響く。
街は眠りについていて、人の気配はなかった。
川辺のベンチに腰掛ける。
溝に溜まった石鹸水を見つける。
まだ洗濯物の匂いが残っているそれをすくい、口に含む。
ぷくぷくぷくぷく。
シャボン玉がいくつも夜空に舞った。
「ねえ、おじさん。何してるの?」
誰もいないはずの背後から声がした。
振り返ると、ぼさぼさの髪をした少女が立っていた。十歳くらいだろうか。
汚れたワンピースを着ていて、足に目をやると何も履いていなかった。
少女は好奇心に満ちた目で彼を見つめている。
「シャボン玉を吹いているだけだ。」
そう答えた声は、久しく使っていなかったせいか、かすれていた。
「へえ、へんなの。お腹は空かないの?」
彼は首を横に振った。
「食べなくていいんだ。石鹸水があれば、それでいい。」
少女は目を丸くした。
「うそ! 人間なのに? 魔法使いなの?」
「魔法じゃない。ただ、そういう体なんだ。」
少女はベンチに飛び乗り、彼の隣に座った。
「あたし、ハナ。お家、ないんだ。ママとパパもいない。おじさんは?」
彼は少し考えてから答えた。
「名前はない。家もない。」
「ふーん。似た者同士じゃん!」
ハナは笑った。
無邪気なその笑顔に、彼は一瞬、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。
だが、すぐにそれは消えた。
ぷくぷくぷくぷく。
再びシャボン玉を吹く。
ハナはそれをじっと見つめた。
「きれいだね。すぐ消えちゃうけど。なんで吹くの? なんか意味あるの?」
彼は答えられなかった。ただ吹く、それだけだ。
ハナは膝を抱えて続けた。
「あたし、いつも思うんだ。なんで生きてるんだろって。誰もいなくて、お腹空いて、寒くてさ。でも、なんか、生きちゃうんだよね。」
ぷくぷくぷくぷく。
彼は黙ってシャボン玉を吹いた。
虹色の泡が月の光を反射して、ハナの顔を照らす。
彼女の目はどこか遠くを見ているようだった。
「ねえ、おじさん。あたしもシャボン玉、吹いてみたい。」
彼はスプーンを差し出した。
ハナは少しためらったが、溝の石鹸水をすくって口に含んだ。
顔をしかめながらも、そっと息を吐く。
小さなシャボン玉が一つ、ふわりと浮かんだ。
「やった! できた!」
ハナは手を叩いて喜んだ。
その笑顔は、シャボン玉よりももっと儚く、もっと輝いていた。
それから数日、彼とハナは一緒に街を彷徨った。
ハナは彼にくっついて歩き、シャボン玉を吹いては、笑った。
彼は、初めて誰かと過ごす時間が悪くないと感じた。
ハナは彼にいろいろな話をした。
かつての家のこと、母親の歌声、父親の大きな手。
どれも、ハナにとっては遠い記憶だった。
ある朝、ハナが言った。
「おじさん、なんで生きてると思う?」
彼は答えられなかった。生きる理由など考えたこともなかった。
ハナは続けた。
「あたし、シャボン玉を見て思ったの。すぐ消えちゃうけど、きれいだなって。それでいいのかなって。生きるのって、シャボン玉みたいなものなのかも。」
その言葉は、彼の心のどこかに刺さった。
シャボン玉のように、儚く、意味もなく、ただそこにある。それでいいのかもしれない。
だが、その夜、ハナは姿を消した。
どこへ行ったのか、なぜ去ったのか、彼にはわからなかった。
ただ、小さな布切れが川辺に落ちていた。
彼はそれを拾い、胸にしまった。
彼はまた一人で歩き始めた。石鹸水をすすり、シャボン玉を吹きながら。
シャボン玉には、時折、ハナの笑顔が映ったように見えた。
儚く、消える。
でも、その一瞬の輝きは、彼の心に残った。
街から街へ、路地から路地へ。彼は彷徨い続ける。
シャボン玉を吹きながら。生きる理由など知らぬまま。
シャボン玉は虹色に輝き、夜空に舞う。
その一瞬が、彼のすべてだった。



