そのスーパーで、ウエハラさんを知らない人はいなかった。
年齢は三十代半ば。
黒髪を後ろでひとつに結び、背筋がまっすぐ。
美人で有名だったけれど、噂の中心になることはなかった。
理由は簡単で、
誰に対しても、同じ目線で、同じ声で話す人だったからだ。
ハルトがレジに並ぶと、ウエハラさんは必ず言った。
「こんばんは。今日は何作るの?」
それは質問というより、
確認に近かった。
「レンジで、豆腐ハンバーグです」
「いいね。お父さん用?」
「……はい」
「じゃあ、今日は少し味濃いめでもいいかも」
そう言って、何も足さない。
何も引かない。
ある日、ハルトはスーパーで立ち尽くした。
カゴの中には、買う予定の材料が揃っている。
でも、値段を見て、計算が合わなくなった。
母が亡くなってから、
ユウイチはまだ慣れていなかった。
生活費も、気持ちも。
ハルトは、そっと一つ、棚に戻そうとした。
そのとき。
「ハルトくん」
ウエハラさんの声だった。
「今日は、どれが主役?」
「……豆腐です」
「じゃあ、それは外せないね」
ウエハラさんは、何も聞かずに
値引きシールの貼られた野菜を指さした。
「こっちに変えよっか」
それだけだった。
ある週末、ハルトはユウイチと一緒に買い物に来た。
レジで、ウエハラさんは一瞬だけ目を上げ、
それから、いつも通りに言った。
「こんばんは」
ハルトを見て、続ける。
「今日は一緒なんですね」
ユウイチは、少し驚いて頭を下げた。
「……いつも、息子がお世話になってます」
「こちらこそ」
ウエハラさんは微笑った。
「料理、上手ですよね。
大人の方が、教わること多いと思います」
その言葉に、
ユウイチの胸が、少しだけ詰まった。
それをきっかけに、
スーパーの人たちの距離が、少し変わった。
青果の女性が言う。
「今日、ハルトくん来てたよ」
惣菜のおじさんが言う。
「この味、家で再現できるか聞いといて」
ウエハラさんは、最後にまとめる。
「無理な日は、無理でいいからね」
それは命令でも、慰めでもなかった。
生活の先輩としての、当然の言葉だった。
ある雨の日、ハルトは傘を忘れていた。
ユウイチは残業で、迎えに来られない。
レジを終えたあと、
ウエダさんは、休憩室から古いビニール傘を持ってきた。
「これ、返さなくていいから」
「……いいんですか?」
「いいの。
困ったときは、使うの」
それだけ言って、
名札を外し、レジに戻った。
ハルトは、傘を握りしめた。
家に帰って
その夜、ユウイチは言った。
「……あのスーパーさ」
「うん」
「なんか、親戚多いな」
ハルトは、少し考えてから答えた。
「家族、かも」
ユウイチは笑って、
少しだけ目を伏せた


