シンママの隣に越して来たエリート経営者は元カレです

 必要資料に漏れがあったせいで午後の会議が異様に長引いてしまった日、ようやく脱出したばかりの廊下で営業部長の大川に後ろから声をかけられた。
 父とそこまで歳の変わらない男は、まるで親戚の子供に話すように馴れ馴れしく俺の肩を叩いてくる。そのフレンドリーさが彼にとって営業の武器なのかもしれないが、もうそろそろそれは時代錯誤だと気付いて欲しい。

「望月専務、こないだお伝えした話は考えてもらえましたか? 先方はかなり乗り気でいてくださるんですけどね」
「こないだの話、というと?」
「まぁた、とぼけないで下さいよ。佐竹社長のところのお嬢さんとの話ですよ。向こうから是非にっておっしゃってるんで、一度くらい会ってやっても――私も何度かお会いしたことありますが、社長の奥様に似てなかなかな美人というか」

 大川の言葉に、俺は「なんだそのことか……」と心の中で深い溜め息を吐く。彼が担当している大口の取引先の一つである佐竹建設。そこの社長の娘との見合い話を少し前からしつこいくらい持ち掛けられていた。
 至って平凡な見た目の佐竹社長とは違い、夫人は確かに歳の割には華やかな人だった記憶があるし、その母親に似ているという娘が美人なのはおそらく本当だろう。
 けれど、俺には興味のないことだと、半笑いを浮かべながら大川へと冷ややかな目を向ける。

「今朝、父からも確認されましたが、あまり余計なことを画策しないでいただきたい」

 会議の始まる前、社長室に呼び出されて父親から「見合いするのか?」と短く問われた。仕事で実績さえ上げ続けていれば俺のやることには関心のなさそうな男が、わざわざ時間を作って呼び出して聞いてくるくらいだから、営業部長から何かしらの説得を受けたに違いなかった。どうせ、相手方は一人娘らしいし、これを縁にいずれは我が社の傘下に、なんていう都合の良い話だろうが。
 息子のことを駒の一つとしか考えていない男には、この縁談へ反対する理由なんてないのだろう。俺の意思なんてこれっぽちも考えてもいない。
 先に父親を味方に付けた男は、自信満々な顔で俺に当然のことのように言ってくる。

「佐竹建設との繋がりが出来るのは、我が社としてもメリットしかありませんよ」
「じゃあ、あなたの部下の手頃な奴を見合いさせればいい」
「なっ……⁉」

 こういう時、自分には交際している相手がいるということを堂々と公言できたらといつも思う。でも、それには相手の了承が不可欠で、小春の気持ちを確かめずには先走ることなんてできない。彼女が俺との交際に対して不安を抱えているのは知っているからだ。

 なのに、それから数日もしないうちに、社内では俺と佐竹社長の娘との縁談が進んでいるという噂が出回り始めた。社長である実の父親を巻き込んで、会食という名の見合いの日取りが決まるのも時間の問題。仕事の一環として呼び出されたら、断るのは難しくなる。
 だから俺は、次の週末にでも小春と話し合い、彼女のことを両親へ紹介するつもりでいた。それくらい、彼女のことを真剣に想っていた。

 ――でも、週末の予定を聞くつもりで掛けた電話が小春に繋がることはなかった。

「この電話は現在つかわれておりません……」

 予想していなかった、その無機質な音声ガイダンスに、俺は手に持っていたスマホを床に落としそうになった。
 昨日までは確かに通じていた番号は、あの日を境に彼女の声を聞かせてはくれなくなった。そうなる兆しなんて一切なかったはずなのに。

「小春、一体どうして……?」

 慌てて訪ねた彼女のマンションはインターフォンを何度押しても応答がなく、ベランダ側の窓はカーテンが閉じたままで、エントランス前で立ち尽くして帰りを待つ俺のことを他の住民が不審そうに眺めながら通り過ぎて行った。
 勤務先だった不動産屋を訪ねてみても、彼女は急に退職したと言われた。
 もしかしたら訪ねる時間が悪かったのかもと、週末の昼過ぎに再び会いに向かった時、ちょうど訪れていた管理会社の人から告げられた。

「ああ、大槻さんなら今朝、引っ越しされましたよ。――さぁ、引っ越し先までは分からないですね……」

 彼女の身になにかあったり、事件に巻き込まれたりしたのかという心配は、その言葉でなくなった。つまり、小春は無事なのだ。でも、彼女が自分の意思でこのマンションから出て行った理由がさっぱり分からない。
 否、きっと自分のせいだと俺はすぐに気付いた。彼女のことを親に紹介すると決めてすぐなのだから、自分の周囲の誰かが小春に対し圧力を掛けたに違いない、と。

 俺はその足で実家へと車を飛ばし、両親を問い詰めた。交際している相手がいると告げた後、父がすぐに動いたのには気付いていたから。

「お前が交際しているという相手のことを調べたのは確かだが、別に何もしていない。どうせ放っておいても続きはしないのだから、わざわざ接触したりするものか」

 女性軽視な父は俺も自分と同じだと考えているらしく、小春との関係は一時的なものだと思っていたらしい。彼女に対して何か吹き込んだわけではないと否定していたが、そんなことを信じられるわけがない。現に小春は俺の前からいなくなってしまったのだから。
 恋人に去られた俺に対し、失笑してくる父親に向かって、俺は投げやりに宣言した。

「もういい。前に上がっていたアメリカ支社への転勤話あっただろ、俺それに行くわ。だから、佐竹社長のところは適当に断っておいてくれ」